菊と刀とカワセミと

 人生で初めての小論文の課題が、本音と建前について論ぜよというものだった。小論文というものの書き方がよく分からなくて、結局、書けずに終わってしまった。建前なんて邪魔臭いだけで、本音でコミュニケーションを交わした方が効率的だとか、一方で、建前というクッション材があった方が余計な衝突を避けられるだとか、恐らく、それくらいのことは思いついてはいたのだろうけど、高校に上がりたての自分には小論文の書き方が分からず、マス目を埋められなかった。

 このことを思い出したのは、就職活動をしていて、建前で飾らなければいけないことが多かったためだ。業界を志望した理由だとか、御社を選んだ理由だとか、どれくらいの志望度かだとか、当然聞かれた。他にも、今まで苦労したことや挫折したこと、それをどうやって乗り越えたかだとか、チームで達成したことや、そのプロセスで衝突や葛藤はなかったかだとかも聞かれた。聞きたい気持ちは分かる。しかし、いかに大変だったか抑揚をつけて語らなければならない状況が気持ち悪かった。建前がビジネスの上で必要なのも分かる。本音をぶちまけるだけの人間が同じ集団にいると大変なのも分かる。自分の苦労を評価していた方が他人の苦労を理解できるだろうし、集団の利害調整の億劫さも知っていた方がいいだろう。分かってはいる。利得構造が見えていないわけではない。建前を丁寧に作り上げる戦略を選べば利得が高く得られることは分かっている。分かっているし、その能力もあるし、実現可能だと自分で信じている。そんな利得構造は分かっているのだけれど、これは客観的な利得で、ここに主観を入れていくと話が変わる。くだらない建前でもって、エネルギーや時間を浪費することは馬鹿らしく思えてしまう価値観を持っているせいで、建前で飾って本音と違うことを公的な場で主張する戦略を取るのには心理的コストがかかってしまうのだ。自分の性格上の問題点が炙り出されてしまった。結局、就職活動としては、そんな建前があまり必要なかったところへ行けたので良かった。もっと自分の実力が高くあれば、余計な戦略に関する思考をしなくて済む。レベルを上げて物理で殴ればいい。少しばかりそういう思考が再浮上した。

 本音は固く、場所をとる。集団の中で、本音が多く交差すると、ぶつかってしまってうるさい。大きな会社であれば、摩擦や衝突のコストが大きくなりすぎてしまうのだろう。そういうわけで、建前によるオブラート能力や本音を折り曲げる能力が必要になるため、選考で問われるのは当然だろう。個人の利得関係と集団での利得関係を考えて、本音と建前の機能性を捉えるべきなのだろう。集団の利得をぶち壊すくらい強くなりたい。特別になりたい。

きっと何者にもなれないお前たちに告げる

 就職活動がほとんど終了した。あとは、最後の決断をするだけだ。選択肢から一つ選んで、路線を決める。人生の分岐点に立たされている。何物でもない自分を何者かにするときが、とうとう来たのだ。まもなく世界線の収束が始まる。
 人生の大きな分岐点は今まで何度かあった。中学受験の志望校選び、文系理系の選択、志望大学の選択、大学院の選択と経験してきた。けれども、就職先の決定が一番重い。心は揺れる。本当にその決断で良いのか。後悔しないのか。やっていけるのか。分からない。長く続いたモラトリアムの終焉が目の前に来ている。
 小学生だった頃、ニンテンドー64マリオストーリーというゲームが好きだった。中でも、ヘイホーというキャラクターがたくさん出てくるステージが好きだった。仮面をつけたヘイホーが転ぶシーンが可愛らしかったのを覚えている。大学生になって、千と千尋の神隠しを見て、カオナシが好きになった。お面をつけて佇む姿に惹かれていた。思い出してみると、ゼルダの伝説ムジュラの仮面も好きだった。(自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張るつもりは毛頭ないが、一番古い記憶は、四歳くらいの頃、病院の待ち時間に、ゲームボーイポケモンをしていて、フシギバナで戦っていたシーンだ。)お面や仮面に、何か惹きつけられるのはなぜだろうか。
 自分の生き方を見直してみると、一つの本質的な芯を立てて、その周りに面を作って、それでもって、人に対応している気がする。つまり、ある程度の一貫性を見せながらも、その芯の内側を見せないように、相手に合った面を見せている。何者かを提示せずに、お面をつけているだけなのかもしれない。そんな生き方をしていたから、お面をつけたキャラクターに、仲間意識でも抱いて惹かれていたのかもしれない。
 就職して社会に出るということは、自分が何者であるかを明示しなければいけない。社会に対してお面をつけているわけにはいかない。何者であるかを決定して、示さなければいけない。仮初めのペルソナを外さないといけない。生存戦略として。

ジョークは即興に限る、禍根を残せば嘘になる

 近松門左衛門虚実皮膜論によると、芸というものの真実は虚と実の間にあるのだそうです。人っていうものは信じたいものを信じるきらいがあるので、そういうものかもしれませんね。面白いものが、事実か虚実か分からずとも、事実とみなされたりするものです。「事実は小説より奇なり」なんて言いますが、そこで語られた事実には虚(脚色のようなもの)が混じっているかもしれません。そもそも、ある出来事を語るとき、その出来事の説明は部分的に一つずつしかできないのです。分かりにくいので例を挙げてみましょう。例えば、ワタクシが渋谷のスクランブル交差点の、とある1秒間を説明するとします。「歩行者信号が青に変わった。つけまつげをふんだんに使った茶髪の女子高生がスマホを落とした。道の端に座っているホームレスは何かを悟ったかのように虚空を見つめている。時間に追われたサラリーマンが一歩を踏み出した。それに先導されたかのように、渋谷の群衆は足並みそろわぬ行進を始めた。そのとき、僕のウォークマンではシューベルトの魔王が流れていた。」なんて即興で書いてみましても、同じ1秒で起きたことを説明するのに順番に説明することになりました。同時に起きたことを同時に説明することは不可能なのです。そう考えると、どんな事実も表現する人間によって事実が違った形で表れることになるのです。ここで表現されたものはウソとも言い難いし、ホントとも言い難い、何かだと思われます。「正しい事実が一つあったとして、それを二つの視点から観察したとき、違う結果が出たとする。そのとき、どちらの視点が正しいかを判断する方法は本来、無い。自分の正しさを証明する方法なんて、この世には無い。でも、だからって、自分が間違っていると決めつけるのも同じくらい違う。」ということなのです。芸の面白さってそういう曖昧さにあるということなのではないのでしょうか。ちなみに、ホントっぽいウソをつくコツはホントの話にウソを上手に混ぜ込むことです。どうでもいいことですが。

 

(2012年10月22日に書いたものを編集)

さよならアイデンティティーよ

 仮面女子というアイドルグループのメンバーの一人が、強風で倒れた看板の下敷きになって、脊髄損傷による両足麻痺で車椅子生活を送ることになったというニュースを読んだ。予期せぬ唐突な事故によって、ステージの上に立つことができなくなった一人の少女の気持ちに思いを馳せた。自分のできること、しかもそれが自分の生活の中心にあることが、ある日突然、できなくなったとき、どれほどの絶望に陥るのか、今の私は知らない。知らないのだけれど、自分がよく見ていた野球選手だとかサッカー選手だとかが怪我をして、元のプレーができなくなっている様を見ていると、自分にそんなことが起きるケースを想像することがある。私は今まで約20年間、何かしらの教育を受け、何かしらの学習をし続けてきた。もし何かしらの事故がふりかかって、頭が突然使えなくなったとしたら、自分は何を思うだろう。長年積み上げてきた能力は、自己を自己たらしめるものに間違いないと思う。それは一つの核であり、拠り所であるはずで、失ってしまうと、バランスが取れなくなるだろう。考えるだけでも怖い。(ここで考えているのは、自分にとっての、自己を自己たらしめるものであって、このことに関して言えば、自分を突き詰めて考えて行けば、理解できるはずである。一方で、他人にとっての、自己を自己たらしめるもの、つまり他人からの自分の評価がどうできているのかというものは、理解することは、はるかに難しい。脳みそが隣人に、声が宇宙人に、アレが人参に変わっちゃったとしてもという歌詞が頭に響く。他者からの評価についてはここでは書かないことにする。)普段意識していなくても、心のどこかで何かに縋っている。それは、知力であったり、体力であったり、神であったり、誰かであったり。それはいつか崩れることもあるかもしれない。そのときに、どう建て直すのか、どう積み直すのか、再構築の仕方が肝要なんだと思う。
 自己を表すものとなるのが職業になるだろう。就職活動がもう少ししたら終わるのだが、ルートの決まった安定した大きい船に乗るか、どこにいくか分からないけど面白そうな中くらいの船に乗るかという問題に悩まされている。何者になるかという岐路に立たされている。三月のライオンでいう棋士だとか四月は君の嘘でいう演奏家だとかの、自信のアイデンティティーがその職と同一化していて、それゆえその成果に左右されながらも前に進むしかないという生き方(鋼の錬金術師のバリーザチョッパーも思い出す)を見ると、かっこいいと思うのだが、その生き方に自分が耐えられるのか分からない。特別でありたいと思えど、特別になれるのか。単なる社会の人身御供で終わりたいとは思わない。

権力を持った単細胞は怒らせるな

 親子丼ブームが個人的に来ている。夜は少し高級な焼鳥屋でもランチだと手ごろな価格で親子丼を提供しているお店は意外とある。そのようなお店を巡って親子丼を食べることにハマっている。店によって、使っているダシや卵、鶏肉が違うため、味が明確に違うのが分かって楽しい。そして、なんとなく健康的な気がする。そんな感じで親子丼を食べている。
 話は変わるが、先日、目黒シネマで『ギフテッド』を鑑賞してきた。ストーリーの構図自体は単純だった。天賦の才を引き伸ばす教育を是とするイブリンと、そのような教育を受けて育った姉の自殺を見て普通の教育を是とするフランクの間のメアリーの養育権を争う対立構図だ。才能をできるだけ引き出してあげたいというイブリンの気持ちも分かるし、普通に育ってくれればそれでいいというフランクの気持ちも分かる。自分に子どもができたとき、どうやって育てるのだろうかと考えたり、自分勝手に育ってきた自分に子どもを育てることができるのかと考えたりもした。また、自分は突出した才能があったとは思わないが、メアリーにも感情移入していた。代数学が理解できる頭で、簡単な足し算を課されるなんて苦痛でしかないだろう。学校に行きたくない気持ちも分かる。父親にも見放されたのに、信じていたフランクにまで見捨てられたら、辛いだろうと共感したりもした。一方で、突出した能力を持っていながらも傲慢になっていない点や上級生にも立ち向かう正義感がある点に驚いた。フランク自身は自分の教育の仕方に自信がなかったのかもしれないが、哲学の先生であるくらいの頭脳と姉の育ちを見てきた経験から、「良い」教育をしていたのだろう。加えて、近所のロバータと片目の飼い猫のフレッドも良い効果があったのだろう。メアリーはそういう意味で良い環境にあったように思う。そういった環境にないと、自分の中に閉じこもった方が楽だということに気付いて、閉じこもったまま育ってしまうのではないかと推測する。メアリーの可愛らしさに心打たれながら、そんなことを考えながら観ていた。気に入ったシーンとしては、スペシャルな朝食のシーンであるとか、おはようスティーブンソン先生のシーンとか、夕焼けのフランクとメアリーのシーンであるとか、枚挙に暇がない。台詞も含めて、そういうのが上手い監督なのだろう。
 どうも、親子モノに弱い。映画で言えば、『リアル・スティール』、アニメで言えば、『うさぎドロップ』あたりだ。心に傷を抱えた子どもが、その傷に痛みを感じながらも、生きていく話がよく刺さる。

「恐怖」を克服することが「生きる」こと

 ダムはいい。人だらけの都会を離れて山奥へと向かっていくと、自然の景色が広がっているのだが、そこに巨大な人工物が自然を抑え込んでいるのだ。都会では見られない自然と人間の対立の構図が待ち構えている。ダムの魅力はそこにある。放流のシーンはとくに圧巻である。抑え込まれていた水を解放すると、自然の状態へ戻ろうと下へ下へと落下していく。人間はその落下さえ、人間のものにしてしまう。人間の末恐ろしさを感じる。これだけの巨大な構造物は当然簡単に作られているわけではない。工事の過程で、多大な犠牲を経て完成している。見えない歴史を感じて一層、恐ろしさを感じる。ダムの良さは、ダムを目の当たりにしたときに感じられる凄みにこそあるのだ。
 ところで、ムダはどうだろうか。ムダはいいのか、わるいのか。意味もないムダな作業をやらされるのは、個人的には何よりも嫌いだ。一方で、全く意味のないことだけれど好きでやっていることはムダなのだけれど、心地よいなんてこともある。さて、いったいどういうことなのか。ムダを省くこと、つまり効率化は、ある費用関数を用意したときの最適化だ。結局は、この最適化問題をどう設定しているかの違いだろう。どういった費用関数があって、制約は何か、最適化を図る期間はどのくらいなのか、これを意識すればムダかどうかの議論に起きる対立の大半は解決するように思われる。コスパがどうとかで争われるムダな議論は、これを確認すべきだと思う。
 企業ではムリ・ムダ・ムラを省いて、効率化を図ろうという動きがあるが、心のムリ・ムダ・ムラについて、書かれているのが、『自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術』だ。

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最近、この本を読んだのだが、この本が役立つ人は周りにたくさんいるような気がしたものの、個人的にはそこまで学ぶことは少なかった。だいたいの感情のコントロールの仕方は今までの経験から学んでいた。高校3年生の秋に不登校になった経験だとか、その他諸々の挫折から、いつの間にか身につけていたみたいだ。不登校で学校にも行かず何もしなかったあの期間は一見ムダのように見えたが、実際はそうではなかったのだ。早いうちに学べていて良かったと今では思う。そういえば、最初にダムのよさを熱弁してみたが、ダムには行ったことがなく、すべて想像で書いたムダな一段落であった。何がムダで何がムダじゃないのかなんて結局のところ、よくわからないものだ。

拉麺の告白

「僕には、僕を殺してほしいという欲求があるんだ。心に棲まうモンスターみたいな欲求なんだけど、けっして自殺願望なんかじゃない。けして、そんなもんじゃない。自ら命を断てるほどの選択は僕にはできやしない。そして、連続殺人犯だとか強盗、通り魔だとかにナイフで刺されたいとか銃で撃たれたいなんて欲求でもない。物理的な、生物的な死を求めているわけじゃないんだ。心臓が止まって、脳が動かなくなって、楽になりたいっていうものではない。いや、ちょっと近いかもしれない。思考を止めて、苦しみから逃れて、楽になりたい。これが僕の欲求に似ている。こんな欲求が満たされる瞬間は普段、ふつうに生きていても手に入りやしない。でも、ごくたまに、そんな瞬間は訪れるんだ。そんなときを過ごしている間は、言葉じゃ良い表せないほど、幸福なんだ。でも、その間に、何かを意識しているわけじゃないから、実は記憶にとどまっちゃいない。ただ、幸福だった気がする。そんな気持ちが、終わった後に残っている。残り香のような幸福感に浸っていられる。僕が殺されている瞬間というのかな。我を失っている瞬間。主観を無くして客観に入っているような。忘我の境なんて言葉が近いのかもしれない。じゃあ、いったい、いつその瞬間ってやつはやってくるんだって話なんだよね。いちばん、かんたんに僕を殺す方法ってのは、集中することさ。もちろん、かんたんって言ったって誰もがいつでもできるわけじゃない。自分のもってる能力の限界を引き出して無意識に何かに集中して取り組んでいるとき、その瞬間はやってくるんだよ。勉強だってスポーツだってかまわない。この方法に似たようなことは宗教だとかで行われているんだと思うよ。ただひたすらに祈るだとか、お百度参りだとか、イスラム教のぐるぐる回って踊るやつなんてのもそういうことなんじゃないかなって僕は思ってる。単純な行為をなんべんもなんべんも繰り返して、自分を忘れてしまうというのが狙いなんじゃないかなって僕は思ってるんだ。まぁ、そんな二つの方法のほかに、もうひとつやり方があるんじゃないかって最近気づいたんだ。自分より好きな、自分のことを好きな人を好きでいることなんじゃないかなって。自分より好きな人がいる自分が好きなのなんて歌っているバンドがあったっけ。つまりはそういうこと。自分じゃない誰かに没頭しているときってのは、僕が殺されているときなんだよ。君のキスや匂いが僕に生きた心地を与えてくれるなんて英語で歌ってるバンドもあったね、タイトルはなんだったかな。思い出せないし、この話は、このへんでおしまいにしよう。あと、最後に、ひとことだけ。僕はラーメンが好きだ。食べた後、美味しかったっていう幸福感に浸れるからね。」