霞と側杖を食らう

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他の短を挙げて、己の長を顕すことなかれ

「君は人を下に見ていないか?」と問われたとき、どう受け答えればよいだろう。

 たとえば、人並み以上に勉強ができる人がいるとする。その人(甲)がその人より勉強ができない人(乙)に対して勉強を教えるとき、甲は、乙がどこまで理解できているか、どの程度の説明でどれくらい理解できるかを感じ取りながら教えていくかもしれない。理解度や理解力に関して評価しながら教えていくことは考えられる。これは勉強という基準を例として用いたが、スポーツにしろ、何にしろ、教える側が教わる側に対して同様のことが起こりうるだろう。ここで、甲は乙に対して、ある意味では下に見ていないだろうか。

 上のケースでは教えるという行為の要求してくる上下関係ゆえの特殊性かもしれない。ところが、ある基準、ある次元において、他の人の理解度、理解力を心の内に評価しながら、行動しているケースは他にも多く存在しているのではないだろうか。女子集団における容姿の長けた女の子はそうでない女の子に対して容姿を褒めた場合、乙は甲が馬鹿にしているように聞こえるかもしれない。馬鹿にしているように聞こえるかもしれないと考える甲はそんな発言しないだろう、どこか心の内で容姿に関するランク付けをしながら。耳が聞こえない人がいたら、その人は普通の人は耳が聞こえないという経験をしたことがないだろうから、自分が当たり前だと思っていることを他の人は当たり前だと思っていないだろうと考えながら行動するだろう。

 人は社会で生きていく中で、自分の立ち位置を把握して行動を規定していくものだと思う。サルならば、その強さのみを気にしていればヒエラルキーが完全に決定されるかもしれないが、人間の強弱の次元は数えきれないくらい多い。容姿、勉強、スポーツ、音楽、美術、面白さ、その他諸々の能力が存在する。自分の強み・自分の弱みをそれぞれ把握していく。逆に他の人が相対的にどうなのかを考える。こういったときに、人を下に見てしまう事象は当然発生する。人を下に見ることの問題点は、きっと、その事象に付随しうる嘲笑的な態度だろう。その態度が無くただ事実を、事実と思われることを把握することは悪いことだろうか。以上の説明は、冒頭の問いに対する受け答えとして悪いだろうか。まだ納得のいく答えは得られていない。