起源にして、頂点

 就職活動が解禁された。3月1日に日付が変わった途端、企業の採用ページへのアクセス戦争が開始された。アクセス集中で繋がらない。早い者勝ちの席取り合戦だからだ。深夜0時に無駄な争いを繰り広げるなんて不毛でしかない。こういった非効率の極みを生み出す仕組みが大嫌いだ。消えてしまえばいいと思いながらも、従わないと損するのはこちら側なので、仕方がなく従う。午前2時くらいにアクセスしなおして、説明会など諸々のイベントの席を予約しておいた。

 就活生すなる合説といふものに参加してみた。「文系」と書かれた札をぶら下げるよう指示され、各企業のブースの席に着かされる。若手の社員がどういう志望をして就職したのかを説明してきた。そういう人を求めているというメッセージなのかもしれないが、なんとも面白くない。定番な理由を書き並べただけで、嘘臭いからだろう。100%嘘だとは思わないが、どうも半分くらいは真ではない気がする。それがどうも、下手くそな演技の役者のドラマを見せられている気分だ。

 かといって、志望理由を明快にしてエントリーシートを埋める番が自分に回ってきている。過去を整理して、原体験を洗い出し、自分の真に求めていることを探し出さなきゃいけない。今自分がやっていることややりたいことに対して原因となりうる過去の大きな体験は見つけ出している。しかし、実際は曖昧模糊に五里霧中に駆け抜けて今があるだけで、原因ということに帰着させているだけなのかもしれない。理路整然としたストーリーを紡ぎだしているだけで。

 一つ、自分の人生観として、人の行動は、その人を取り巻く環境構造と、その人の内部の利得構造によって決定されるものだという見方がある。ゲーム理論の考え方に近いものを、ゲーム理論を知る前から持っていた。人が何か悪い行動をしているとき、それは基本的にその構造が悪いものだと考えていた。水が高いところから低いところに流れるように、アリがアリ地獄から抜け出せないように。このような考え方をしていると、誰かに対して怒りの感情はなかなか抱かなくなる。行動の原因を察することができれば仕方がないと思うのだ。そうなるべくしてそうなってしまっている。構造を変化させないとダメなんだと。ただし、この諦観的な態度は他人への期待の低さとして、他の人に捉えられることになる。一度、これで人に怒られたことがあるが、この人生観はなかなか変えられない。きっと、この人生観は、災害や事故、家族の急死といった自分ひとりの力ではどうしようもないことが襲い掛かって、無力感に苛まされながら、編み出されたものなんだと思う。