霞と側杖を食らう

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さよならアイデンティティーよ

 仮面女子というアイドルグループのメンバーの一人が、強風で倒れた看板の下敷きになって、脊髄損傷による両足麻痺で車椅子生活を送ることになったというニュースを読んだ。予期せぬ唐突な事故によって、ステージの上に立つことができなくなった一人の少女の気持ちに思いを馳せた。自分のできること、しかもそれが自分の生活の中心にあることが、ある日突然、できなくなったとき、どれほどの絶望に陥るのか、今の私は知らない。知らないのだけれど、自分がよく見ていた野球選手だとかサッカー選手だとかが怪我をして、元のプレーができなくなっている様を見ていると、自分にそんなことが起きるケースを想像することがある。私は今まで約20年間、何かしらの教育を受け、何かしらの学習をし続けてきた。もし何かしらの事故がふりかかって、頭が突然使えなくなったとしたら、自分は何を思うだろう。長年積み上げてきた能力は、自己を自己たらしめるものに間違いないと思う。それは一つの核であり、拠り所であるはずで、失ってしまうと、バランスが取れなくなるだろう。考えるだけでも怖い。(ここで考えているのは、自分にとっての、自己を自己たらしめるものであって、このことに関して言えば、自分を突き詰めて考えて行けば、理解できるはずである。一方で、他人にとっての、自己を自己たらしめるもの、つまり他人からの自分の評価がどうできているのかというものは、理解することは、はるかに難しい。脳みそが隣人に、声が宇宙人に、アレが人参に変わっちゃったとしてもという歌詞が頭に響く。他者からの評価についてはここでは書かないことにする。)普段意識していなくても、心のどこかで何かに縋っている。それは、知力であったり、体力であったり、神であったり、誰かであったり。それはいつか崩れることもあるかもしれない。そのときに、どう建て直すのか、どう積み直すのか、再構築の仕方が肝要なんだと思う。
 自己を表すものとなるのが職業になるだろう。就職活動がもう少ししたら終わるのだが、ルートの決まった安定した大きい船に乗るか、どこにいくか分からないけど面白そうな中くらいの船に乗るかという問題に悩まされている。何者になるかという岐路に立たされている。三月のライオンでいう棋士だとか四月は君の嘘でいう演奏家だとかの、自信のアイデンティティーがその職と同一化していて、それゆえその成果に左右されながらも前に進むしかないという生き方(鋼の錬金術師のバリーザチョッパーも思い出す)を見ると、かっこいいと思うのだが、その生き方に自分が耐えられるのか分からない。特別でありたいと思えど、特別になれるのか。単なる社会の人身御供で終わりたいとは思わない。