ジョークは即興に限る、禍根を残せば嘘になる

 近松門左衛門虚実皮膜論によると、芸というものの真実は虚と実の間にあるのだそうです。人っていうものは信じたいものを信じるきらいがあるので、そういうものかもしれませんね。面白いものが、事実か虚実か分からずとも、事実とみなされたりするものです。「事実は小説より奇なり」なんて言いますが、そこで語られた事実には虚(脚色のようなもの)が混じっているかもしれません。そもそも、ある出来事を語るとき、その出来事の説明は部分的に一つずつしかできないのです。分かりにくいので例を挙げてみましょう。例えば、ワタクシが渋谷のスクランブル交差点の、とある1秒間を説明するとします。「歩行者信号が青に変わった。つけまつげをふんだんに使った茶髪の女子高生がスマホを落とした。道の端に座っているホームレスは何かを悟ったかのように虚空を見つめている。時間に追われたサラリーマンが一歩を踏み出した。それに先導されたかのように、渋谷の群衆は足並みそろわぬ行進を始めた。そのとき、僕のウォークマンではシューベルトの魔王が流れていた。」なんて即興で書いてみましても、同じ1秒で起きたことを説明するのに順番に説明することになりました。同時に起きたことを同時に説明することは不可能なのです。そう考えると、どんな事実も表現する人間によって事実が違った形で表れることになるのです。ここで表現されたものはウソとも言い難いし、ホントとも言い難い、何かだと思われます。「正しい事実が一つあったとして、それを二つの視点から観察したとき、違う結果が出たとする。そのとき、どちらの視点が正しいかを判断する方法は本来、無い。自分の正しさを証明する方法なんて、この世には無い。でも、だからって、自分が間違っていると決めつけるのも同じくらい違う。」ということなのです。芸の面白さってそういう曖昧さにあるということなのではないのでしょうか。ちなみに、ホントっぽいウソをつくコツはホントの話にウソを上手に混ぜ込むことです。どうでもいいことですが。

 

(2012年10月22日に書いたものを編集)