地方と都市と価値観の構成と

  都市と地方の格差の話が四月に盛り上がっていた。そのきっかけはこれだった。

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地方から東大に来た筆者が、都会出身の学生と田舎出身の学生を目の当たりにして、文化資本の差に気付かされ、驚いたという話が、コントラスト強く書かれている。これを読んだとき、思い浮かんだのは新潟にある親戚の家に行ったときに聞いた話だ。塾に行ってもそこに質問にちゃんと答えられるスタッフがいないというものだ。それは当然で、優秀な学生は都市にある大学へ進出してしまうのだからと考えていた。そのとき考えたことはそれくらいしか今では覚えていない。地方の気持ちがよく分からないので、とくに考えようともしなかったんだと思う。

 どうして、こんな話をしているのかというと、先日、地方出身の友人2人とお酒を飲んだ際に、そのうちの1人が大学に入ってから今までの人生の選択が、地元の親や兄弟への言い訳になるように選んで来ていたのかもしれないという悩みを話し始めたことがきっかけである。彼は、ふとした自己分析の中で、弟や妹を置いて東京の大学に来たことや親にお金を出してもらうことに対して、どこか罪悪感のようなものを感じていて、それを払拭するための選択をしてきていたのだと自分の行動を解釈したと語った。続いて、もう一人の友人は、自分の妹は地元を出て大学に行きたいのに母も祖母もそれを望んでいないという悩みを相談されたと話した。二人の友人も、また、東京の学生と地方の学生で、考え方であるとか価値観であるとかが全然違っているという点で共感し合っていた。文化資本だとかそういうものの前に、価値観からして、地方の見えない呪縛のようなもので構成されてきているんだと話す。一方、私は、東京出身(といっても正確には神奈川県だが)であり、あまり彼らに共感ができなかった。その原因は東京出身だからか、自分の育った環境だからか分からないが、話を聞いて、自分の価値観がどのように構成されたのかを考えることとなった。当然幼い頃に親から受けた教育に影響されている部分はある。だが、それが大きく占めることはない気がする。自分で自分を作らなければならない環境にあったような気がする。中学生の頃から、漫画や小説、アニメやゲーム、映画を摂取して、自分の形成に役立ててきたように思う。自分を形成しては、どこかで上手くいかなくなることに気付くと、一度壊して、自分をまた作りなおす。それを何度か繰り返して今の自分があるように思う。そこに、親や親戚による強く影響されていないように思う。このやり方はどこか強いようで、どこか脆いのかもしれない。こんな話を水道橋の居酒屋でしていた。

 昔ながらの家族から受けて自分を構成する方法は都市の核家族では弱まっているのかもしれない。祖父や祖母はいないし、親が共に働きに出ていたとしたら、自分で自分を構成するしかないのだ(宗教が同様の役割をしていたのかも知れない。オウムの事件以降、新興宗教への嫌悪であるとか、エヴァンゲリオン碇シンジだとかの話はそういうことなのかもしれない。これはまたいつか考え直してみたい)。何を価値あるものとするか、何が正しいか、何を是とするかということは価値観であり、倫理である。この構成の差なのだろう。

 少しこの話を記録しておきたくて、少し雑な文章だがここに残しておく。