霞と側杖を食らう

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見えないモノを見ようとして

カレーの香ばしさとタバコの煙を乗せた、大航海時代を想起させる空気が、地下鉄に押し出された風に運ばれる。後楽園駅の改札のことだ。街によって匂い(臭い)は異なる。そんなにおいは、いくら視力が良くても感じることはできない。目に見えるものだけが存在してるわけじゃない。目に見えないものも存在してる。
見たことなくても、あると信じているものは意外に多い。たとえば、昼ドラの修羅場。昼ドラには、ドロドロの三角関係と修羅場が付き物だと思っているけれども、一度も、そういうドロドロを私は見たことがない。今もやっているのか知らないが、石原良純の天気予報も見たことない。良純の天気予報は当たらないって知っている(いや、知識があるというべきか)けれども、実際に良純の天気予報を見て、外れることを確認したことはない。死に際の走馬灯なんてものも経験したことがない。経験していないのに、存在する、もしくは事実であると思い込んでいる。これまた、少し古い話だが、デスブログがある。確認したわけじゃないけれども、面白がって信じている。何かを面白がる誰かがいて、それの形を変えて人に伝えて、それがまた拡散していく。そんな人の好奇心と不正確さこそが、確認なしに存在を信じる原因だろう。
フェイクニュースなんてドラマがあるらしい。見たことはないんだが、デマだとかフェイクニュースだとかがよく拡散される時代になったものだ(もちろん、昔からそういうのはあったのだが)。情報伝達の速度が飛躍的に上昇した現在、噂の伝達速度は音速を超えているだろう。多種多様で大量の、洪水のような情報を受けているのだから、すべての情報の正しさを確認している暇なんてなかろう。確認のための「ふるい」が必要そうだ。個人的には、その「ふるい」は自分の腑に落ちて信じることができるかどうかっていう疑いなんだけど、疑い続けるっていうのは結構、エネルギーを要するもので、疲れる。そんな面倒な作業をスキップするのが「信仰」とか「崇拝」なんじゃなかろうか。この人がおっしゃっているのだから、もしくは、我が神様がおっしゃっているのだから間違いないっていう省略を欲しがる人もいるだろう。威厳や貫禄、権威や正当性にすがりたいってのもよくわかる。それが楽だから。そういう省略を与えるのが「宗教」の一側面なんだろう。宗教を信仰するのは悪いことでもなんでもないけれど、「直面した問題が解けないから」といって、考えることをスキップして宗教に与えられるものを疑わずに受け入れてばかりいると、悲惨な結末に辿り着くかもしれないよって書いておく。(当の本人にとっては悲惨ではなく、救われて幸せなのかもしれないけど。)オウム真理教の信者にしても、いつだったかの占い師に心酔したオセロ中島にしても、自分で考えることを止めた結末がアレだったんじゃないかなって思う。

 

(2012年9月27日に書いたものを編集)