霞と側杖を食らう

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心変わりは、人の世の常と申しますから

 ここ半年、今まで属していなかったコミュニティにお邪魔する機会が増えた。増えたというより、半分意識的に、そういう機会を増やしている。当然、最初の腰を上げるのは重いのだけれど、実際に行ってみると、従来の自分の行動パターンからは得られない発想や新しい出会いがあって面白い。いつだったか、ネットワークの研究の話を聞いたとき、多種多様なコミュニティに属している人はそうでない人より年収が高い傾向があるなんてことを聞いたこともある。年収の高い人は別のコミュニティに行けるだけの余裕があるってことなのかもしれない。そんな可能性もあるけれど、別のコミュニティに参加すれば、知らなかった世界が開けたりして、年収のようなものへの作用があるとも考えられる。コミュニティとコミュニティの狭間の人を異人と呼んだりしたと思うのだが、異人の役割といった、このへんの話は赤坂憲雄『異人論序説』に詳しく、面白かった記憶がある。いつも属しているコミュニティにばかりいないで、たまには、外に飛び出してみたりするのは面白いし、それが億劫に感じて、できなくなるような自分には、できることなら、なりたくないものだ。

 新しいコミュニティに行くと感じるのは、コミュニティというものが生き続けているというのはすごいことだということだ。コミュニティのメンバーの各々が、そのコミュニティに対して集まろうという気持ちがなければ、コミュニティは成立しえない。コミュニティを見ていると、積極的にコミュニティを運営しようとしている層と、運営されているコミュニティが生きているなら参加し、協力しようとする層と、参加はするがとくに協力しない層と、離れていく層があると感じる。これらの層がどれくらいの厚みがあって、どれくらいの熱量があるのかがコミュニティの存続・活発度に関わってくると考えられる。各々のメンバーは、それぞれの事情を抱えており、コミュニティへの貢献を一律に強制することは自律的なコミュニティでは難しい。コミュニティのメンバー構成やシステムによっても、メンバーの行動は変わってくる。様々な要因が絡み合っている中で、コミュニティというものが明かりを灯しているのは実はすごいことなんだと最近、実感している。

 コミュニティが存続していることで、属しているメンバーは受ける便益(どういった形かは決まらない。)がある。一方で、コミュニティを存続させるためには貢献が必要で、属しているメンバーにとって、費用(便益同様、どういった形かは決まらない。)となる。ここで、費用を嫌う一方で、便益を受け取るメンバーも、もちろん存在する。人なのだから。コミュニティを運営する人にとって、そういった人への態度というのが難しい。

 個人的に理想として思い描くコミュニティのメンバーのあるべき姿というものがある。それは、余裕があるときは自分が費用を被っても貢献するという姿勢だ。みんなが僅かな自己犠牲を捧げることでコミュニティが成立し、そのコミュニティによって大きな恩恵を得られるというのならばそうすべきだと思う。常に美味しいところだけ持って立ち去ってしまうような姿勢は個人的な理想的見地からすると、望ましくない。自分はそうありたくないし、他人もできることなら、そうあってほしくない。これが、そんな私のエゴである。