霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

蛇でいてくれてありがとう

 スイス育ちの方が、日本はハイコンテクスト文化の国で、日本で付き合ってた恋人たちとなぜ上手くいかなかったが分かったなんて言っていたツイートがバズっていた。

スイス育ちの人が日本の人とコミュニケーションが難しいという理由に共感する声「人にものを教えるときに気をつけたい」 - Togetter

ここでは文化人類学者のホールの研究が取り上げられているが、少し気になってgoogle先生に聞いてみると、その研究には実証的根拠はなく、むしろ追試によって実証的に否定されているのだとか。

「日本文化はハイコンテクスト」には実証的根拠がない - 旧版こにしき(言葉、日本社会、教育)※2018年4月、新ブログに移行済み

どのように実証的に示すのか、手法が気になるところではあるが、追試の論文についてまだ確認していない。

 日本がハイコンテクストな文化の国なのかどうかは知らないが、遊びの会話においてハイコンテクストだととても楽しい(「遊び」と書いたのは、遊びでない議論などではローコンテクストから積み上げるべきだからだ)。遊びの会話において、個人的には、どちらかというとツッコミよりボケの役割を負うことが多いのだが、会話でボケるとき、相手がボケの内容を知識として持っていることを期待してボケる。知らないであろうと予想することはボケても伝わらないので(スベるので)、思い付いてもお蔵入りになってしまう。そんなきわどい予測の中で、ハイコンテクストが共有できたとき、得も言われぬ快感が生じる(これに似た話は前回の記事で少し書いた)。自分に文化圏が近い人との会話において、相手の持っているであろう知識の推測はしやすい。会話の中で、仲良くなっていく過程で、相手の関心分野などから推し測っていけばよい。しかし、留学生や年の離れた人など、自分の文化圏と離れて文化圏に属している人の知識の推測は難しいし、そもそも相手の持つ知識自体を自分が知らないことが多く、コンテクストの共有が困難であることが多い(そんなことや表現力の不足から英語での会話がとても苦しい、ボケとツッコミなんて文化、海外にないだろうし、海外のお笑い文化が気になる)。

 相手の知識や戦略、行動の幅の予測は、バドミントンでも行っている。相手がどの球に反応できるのか、どういうショットを打ってくるのかの推測をラリーの中で、意識的にまたは無意識的にしている。逆に相手の予測を読んで、その予測の外側のショット、つまりフェイントショットを打つ。ダブルスのペアに対しても同様で、ペアがどう動くであろうから、自分はどこにポジションをとるといった行動をとったりする。どうして予測をしているのかというと、予測をして、予測の範囲外を計算から外して、早く速く動くためだ。余計な計算を省くことで、不確実性が多い中で、効率的に動くことができる。

 このような予測による計算の省略は、社会にありふれている。たとえば、左側通行だ。左側を通るものだと予測し合っているから、余計な計算コストを生じさせずに、互いに道を進むことができる。予測と違った行動をしてくると、事故が起きやすい。家の近くの信号がこの前、歩車分離式信号に変わったのだが、変わったばかりで、予測が現実とかみ合ってなくて危ない瞬間を何度も見かけた。車側は横断する信号が赤になったら、次はこっちが青になると予測しているので、歩行者信号のみが青になるタイミングで、進もうとしてしまう。歩行者は歩行者で、赤なのに青になると勘違いして歩こうとしてしまう。

 社会の設計(情報公開も含め)において、人々の予測や期待で以て行動をすることを考慮にいれなければならない。余計な計算コスト(エネルギーや時間)を省くようなデザインならば、各個人が余計な費用を省略出来て、全体として大きく厚生を改善できる。上の信号の話もそうだが、この話でよく思い浮かぶのが、公のホームページのデザインだ。必要な情報がどこにあるか分かりにくい設計のホームページが多い。東京都の人がホームページの、とある情報にアクセスしないといけないとして、その情報にアクセスするのに10秒でアクセスできる分かりやすいデザインと、情報のある位置が予測と全然違ってアクセスに1分かかってしまうデザインがあったとしたら、1人の人間が約19年間生きるくらいの時間コストの差が生まれる。おそろしい損失だ。ホームページのアクセシビリティに関わらず、無駄なコストを削減するために、予測や期待、コンテクストの構成について人々は真剣に考えなければいけないように思う。

 とりとめもなく言葉が散らばってしまったが、読者のハイコンテクストで補完しながら読んでくれることを期待する。