霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

終わるまでは終わらないよ

 オ……オオ……クロノ…… ナ……ナツカシイ……。 イヤ……、アナタ方にとってハ イッシュンの事だったのデスネ。 シカシ、ワタシニとっては 400年ハながい時間デシタ……。 シカシ、クロウのかいアッテ森ハよみがえりマシタ。 ……サア、今夜ハ、 400年ブリのサイカイをいわおうではアリマセンカ。

 
 冒頭の引用は、クロノ・トリガーというゲームのロボのセリフである。この140文字程のセリフを読むだけで、どこかこみ上げてくるものがある。

 今日、松濤美術館で開催されている「終わりのむこうへ : 廃墟の美術史」という展覧会に行ってきた。廃墟趣味に関して、18世紀頃のポンペイ遺跡の発掘やグランドツアー(上流階級の子弟が知見を広げるために行われた旅行)の流行による興隆、20世紀頃のシュルレアリスムによる変容、日本への伝播とその後が理解できる良い展示だった。実際の廃墟に訪れてみたいものだと思った。

 廃墟の寂れた風景に、廃れゆく建築物に、人は何を思うのか。時の流れで老いて朽ちる事実に哀愁を覚えるのか。それとも、今にも崩れようとしながらも聳え立とうとする姿に感情が動かされるのか。動きのない景色のはずなのに、ただ眺めているだけで、何かの目的で建築され使用されていたであろう遠い過去と、最期を迎えようとしているどこか近い未来の双方向への流れを感じさせられる。そういう点が廃墟の魅力の一つなのかもしれない。

 モノは、時間をかけ、エネルギーをかけて、作られる。この事実に自分が気付いたのは高校生になってからだった。高校の選択授業で美術を選んで油絵を何日もかけて描くことを経験するまで、絵というモノは上手い人がささっと描いてしまうものだと勘違いをしていた。よくできているモノは、それを作るのに(その着想に至るための経験等を含めて)、ほぼ間違いなく時間やエネルギーが費やされている。モノをただ見ているだけでは見えない、その奥行きを、積み重ねを感じ取れるかどうかは、大切なことのように思う。原価などといった一次元の情報や表層的で短期的な視野に囚われてしまって、コストや有用性を勘定するのは、もったいない。見える目を養っていかなければならない。