霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

瞬間、心、重ねて

 人生は瞬間瞬間における選択の連なりである。選択をするまでに与えられる猶予の時間も使用可能なエネルギーもけっして多くない。制限された時間の中で、持っているエネルギーの中で、選択を続けていく。そんなわけで、余計な時間やエネルギーを消費しないように、いつもやっている動作が無意識に出てしまうものだ。それらの行為は時間とエネルギーに対する制約のもとで最適化されているものなのだ。周りの人の真似を選択するのも、情報を集めて最善の手を計算する余裕がない場合にはある程度有効になるため起こりうると考えられる。制約に縛られながら人は選択を繰り返していく。
 普段からやっている動作は、過ごしてきた環境の中で見よう見まねで無意識に覚えてきたものであったり、どこかで意識して実行していく中で習慣化して無意識でもできるようになったものであったりする。そういった動作は、ぎこちなさがなく、スムーズに行われる。演技で一時的に真似することはできるかもしれないが、それなりのコストを代償にしない限りどこかできっとぼろが出る。演技の中に不自然さが垣間見える。自然かどうかは見てれば分かる。
 人はそんな自然な一挙手一投足に魅了されたり、幻滅させられたりする。ぽろっと出た、本当に些細な言葉で、テンションが上がったり、モチベーションを損なったりする。受け身目線の言葉を並べてしまったが、きっと私も誰かに対してそのような感情の変動を起こさせてしまっているのであろう。誰がどう思っているのかなんてことの正解不正解の判断なんて基本的に不可能なことなのだが。
 このことは、表現と印象の問題として一纏めにできる(表現と印象という言葉が対義語であることを知ったのは高校生の頃だったが、かなり衝撃的だったのを覚えている。ExpressionとImpression なわけだ。)。日常会話も芸術作品も何でもかんでもキャッチボールの投げ手と受け手は真逆の立ち位置にあって、互いにそれぞれの意図するところは分からない。表現者が何を考えて表現を発信したのかに関わらず印象者は好きに何かを考えて受信する。そんなものである。この文章もそのような中で書かれている。
 表現をする側としてはできるだけ正しく意図したものを伝えていきたいし、印象を受ける側としてはできるだけ正しく意図されたものを受け取っていきたい。表現するときは、先に書いたように制約がつきまとうとはいえ、エネルギーを割いて推敲して表現を選択していきたい。印象を受けるときは、表現の意図の拡大解釈や全く異なる解釈をしてしまうこともあるだろうし、それもまた感情を動かしていくものなのでが、第一としてはその限界を頭に置きながらも正しく理解することを心掛けていきたいものだ。
 「白は、完成度というものに対する人間の意識に影響を与え続けた。」という一文を思い出す。原研哉の『白』だ。そして、高校の美術の教師が、白いキャンバスに私が気分で重ねた油絵具を一目見て、何を重ねたのか言い当てたことも思い出した。頭の中はそんな感じでこの文章を書き終える。