霞と側杖を食らう

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大正義と美少女

 

 大学という場所を離れてからというもの、大学というものを相対化して見るようになった。違う大学に通った人や大学に通わなかった人に会う機会が増えたからだろう。高校を出てから、浪人を含めると7年間、一体、何をしていたのかを振り返って、大学教育について少し書き綴ってみる。

 大学に入ると、初年度くらいに、物事を見たままそのまま簡単には信じることができないものだということを、教養の講義か何かで学ぶ。それは、目の錯覚であったり、認知に関するバイアスであったり、何かしらのパラドックスであったり、誰も理解できないように小難しく表現しているけど中身は何もなかったよっていう事件だったりする。某大学の教養英語読本が書いていることは大体そのようなことだったように思う。トトロ見たもんといくら感情的に激しく言っても仕方ないのだ。

 教養を学んだか学んでいないかくらいで、簡単に信じられなくなった物事をいかに疑っていくかを学んでいくことになる。過去の文献等の調べ方であるとか、論理の展開の仕方だとか、疑ったことの表現の仕方のお作法だとか、そういったことを徐々に学んでいく。それらに関して、あらゆる分野に精通することはできないので、専攻する分野の全体を知って、その分野の一部に深く知っていくという形にはなる。

 大学には一つしか通っていないので、普遍的に上で書いたことが言えるのかは知らないし、他学部や他学科についても同様なのかは知らないが(最近、少し気になっているのは、モデルという考え方を身につけるのはどの学部なのかということだ。モデルについては今後いつか何か書く。)、ある程度まともに学んでいたのなら、ある程度一般的に正しいのではないかと信じている。大学院やその先については、君のその眼で確かめてくれといった感じで、ここには書かない。

 まぁ、だからといって、大学に通ったからといって、突然すごい能力が目覚めるわけでもない。「10時間で学べる」なんて表題掲げた書籍が本屋の棚に並んでいるが、実際学んだのがそれくらいの内容で過ごした人もいるだろう。そもそも、最低限の基礎体力もなく大学に通ってしまう人さえ存在する(話は少し逸れるが、予備校業界で6年間アルバイトして、東大入試を見ていたが、東大入試はよくできていて、基礎体力をもって学習した基礎知識を持ったうえで、正しく読めて正しく書ければ、合格できるようになっていると思う。理系については知らないが。このような話はいつか詳しく書くかもしれない。)。そういうわけなので、大学に行ったから偉いとかそういうわけではないが、教育機関として十分な教育機会は与えられていたように思う。

 よく名前を見かける人の書いたことがけっして正しいとは限らないし、声が大きい人が言っていることはよく聞こえるだけなんてことだってあるし、見た目だけ整えてやつの中身が全くスカスカだなんてことだってある。正確な情報にたどり着けるだけのぐぐらびりてぃ(googlability)がないと、不適切で作為的な情報にぐーぐらびてぃ(googravity)によって引っ張られてしまうことだってある。情報が非対称な労働市場も、有能な労働者が半数を下回れば、崩壊するレモン市場の出来上がりであり、陪審定理も、正答率50%を下回ればどうしようもない判別器の出来上がりである。教育機会の価値に気付けていさえすれば。あぁ、教育は重要だ。あぁ、教育は重要だ。