霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

うなぎのマスカラ

 関東地方で梅雨が明けた日くらいに、『天気の子』を観た。観終えた直後の個人的評価は曇り気味だった。ところが、見えないものが見えている人の書いた映画の感想のような何かの記事を読んで、自分にも、見えなかったものが見えてきたおかげで、面白い作品だったと結論付けられた。この記事である。

cr.hatenablog.com


見える人には見えるし、見えない人には見えない何かで、作品の奥行が変わってしまうものだと再度認識した。

 美しい女性が世界を大きく動かすというのは、昔からある話だ(美しいは、時代や場所、文化、その他諸々によって変化する。ここで書かれる美しいは私主観の形容詞ではなく、私主観の客観的な形容詞である。また、因果関係、事実関係についても、以下あやしいところがあるかもしれない。)。歴史の教科書でよく出てくるのは、百年戦争の戦況を覆したジャンヌ・ダルクだろうか。間接的かもしれないが、楊貴妃なんかもそうだ。傾城の美女なんて言葉もある。そんな話は前近代的だなんて言う人もいるかもしれないが、ここ数年で、2人の美人の死が日本を動かした。広告代理店の電通の労働環境で過労の末、自殺した美人な女性がいて、その後、社会全体の労働のルールが大きく変わった。軽井沢のスキー場へ向かっていたが墜落してしまった深夜バスに美人が乗り合わせていたため、大きく取り上げられることとなり、深夜バスの運転のルールが変わったし、料金も動いたように思う。政策形成の俎上に載るには、いくつかのパターンがあるが、その一つが、世間で騒がれるというものだ。美人は世間に大きなインパクトを呼び起こす。そのへんの中年男性じゃ同じ衝撃を起こせない。価値が平等なんてのは空想的な建前に過ぎないのだ。現代になろうと、政治は未だに「まつりごと」で、巫女の祈祷や白羽の矢の人身御供の時代(本当にあったかどうかは知らないが)となんら変わってやいないのだ。

 これが変わらぬ性質だとするならば、それを上手く利用してみたいと思うのも人間の性だろう。利用方法として一つ思いつくのは、バーチャルな美人を作り上げることだ。今の画像・映像の合成技術や音声技術をもってすれば、かなりリアルな、でも実際には存在しない美人を作り上げることは可能ではないかと思う。ただし、その存在がバーチャルなものであることは世間には知られないようにして、存在を世界に信じ込ませる。世界を騙しきったうえで、その存在を生贄に捧げれば、世界を変えることができるかもしれない。この方法ならば、感情や労力を無視すれば、現実では誰も死なずに世界を変えることができるのだ 。

 こんなくだらない話を考えながら、戦争捕虜が収容所で架空の美少女を作って、まるで本当に存在するかのように扱っていたことで、精神を健康に保って捕虜生活を耐えきったなんていう、昔読んだコピペ話を思い出した。実話なのか気になって少しググってみたところ、どうやら実話ではなさそうだ。

togetter.com


実話かどうかはともかく、人は(他の生き物については分からないとこだが)、ないものをあるものとして捉えられる。見えないけど見えるものが見えてくる。もちろん見えるものは人によりけりだ。六畳間をろくじょうかんと見える人だっているように。