霞と側杖を食らう

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印度の子供がなりたいものはラジャラジャマハラジャー

先日、眼鏡を新調した。自動車免許の更新期限が近付いていて、このままでは更新時の視力検査で引っかかると思い、レンズの度を上げなければならなかったのだ。おかげで、遠くの文字もくっきり見えるようになり、免許も無事更新できた。更新できたのは良かったが、眼鏡を外すと、目の前にあるPCのスクリーンすら、文字がぼやけて見えてしまうという現実に気付かされ、少しだけ憂鬱になった。

この世界では、遠くにあるものはぼやけて見えるし、近くにあるものはくっきり見える。これは物理的にも然りだが、精神的にもまた然りだ。関心のあるアイドルグループであればメンバー全員の見分けがつくだろうが、興味のないバンドの曲なんてどれも一緒に聞こえてしまう。人間の認知能力というものは、そんなものだ。一方で、近いからといって、近過ぎるとこれまた見えにくくなる。自分の顔についてる鼻はほとんど見えやしない。自分とは何者か認知することもまた困難を極める。自分を感知するには、鏡や水面に映したり、他者からの反応や言葉の跳ね返りを見るしかない。

こんなわけのわからないことを書き連ねているのは、どうも最近、自分を見失っていると感じているからだ。最も近くにあるはずの自分がよく見えなくなっている。6月頃から何かを喪失している気がしている。自分の立ち位置が分からなくなっている。疫病騒動から来るストレスも一因なのだろうが、もう1つの原因として、周りの友人達のライフステージの変化による影響が考えられる。人生ゲームで言えば、私は職業決定マスを通過したばかりなのに、周りは結婚マス、出産マス、転職マスを踏破している。そんな状況なものだから自分の居場所を見失っているような気がしている。どうあるべきか、どう生きるべきかの再考の強迫観念に苦しんでいるように思う。

2年前の就活をしている時期に、自分が何者かという話を書いていた(https://moratoriamuo.hatenablog.com/entry/2018/05/14/031639)。2年経った今も、自分が何者かなんて分かっていない。人と話したり、本を読んだり、映画を観たりして、自分がどこにあるのか、どうあるべきかをを日々探っている。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。