霞と側杖を食らう

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劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンを映画館で観賞してきた。綺麗な画と感動的な物語で、たしかに見る価値はあった。しかし、多くの知り合いが打たれている感動の大きさほどのものは感じることができなかった。その理由について、考え付いたことを少し記すことにする。

本作は、元々テレビシリーズのアニメであった。テレビシリーズは、主人公ヴァイオレットが、手紙代筆の依頼主との関わりの中で、孤児かつ戦争の道具として生まれ育ったゆえに、それまで持ち合わせていなかった思考や感情、人の心に気付きながら、人々に評価される手紙を書けるようになっていくというものであったと思う。一方で、劇場版では、お客様のために手紙を書くシーンももちろんあるのだが、メインはヴァイオレット自身の物語であると感じた。愛する少佐との再会を望むヴァイオレットの話だったのだが、それはどうも、テレビシリーズ後の物語を整った形で終わらせるための、物語であるように見えた。少佐の生存を描くことで、ヴァイオレットというキャラクターを幸せにするために作られた物語だと思われたのだ。王道で、たしかに力強いのだけれど、自分が、ヴァイオレット・エヴァーガーデンというタイトルに求めていたものは、テレビシリーズで見ていた、手紙を代筆することを通じたヴァイオレットの自己への気付きだったのだ。他者とのやり取りを通じて自己を見るという話は、先日書いた記事で少し触れた(https://moratoriamuo.hatenablog.com/entry/2020/09/22/135107)。そういうところに良さを見出していたのだろうと、劇場版を見て、テレビシリーズと比較して気付いた。映画冒頭の家のシーンを見て、この家はもしかしてあの家なんじゃないかとすぐ気付いたくらいには、テレビシリーズが結構印象に残っていたんだろう。強い印象に残るくらいのアニメだったため、観賞前の期待がかなり高まっていたというのも、良くなかったのかもしれない。

劇場版では、電信が普及し始めていた時代設定になっていた。産業革命期の時代の潮流の大きな変化が起きている、あのような世界観は個人的に、とても好みなのだとも再認識した。プレステ2のゲームで『ポンコツ浪漫大活劇バンピートロット』というゲームに昔、熱中した。このゲームの世界観も同様で、それが原因かもしれない。私も、誰が読んでいるのか全く分からないこのブログで文章を書きながら、自分を少しずつ発見していると、いつも感じている。