霞と側杖を食らう

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きみの鳥は名もなき詩もうたえる

オペラシティで空を仰いでいる巨大な人のモニュメントに出会って、名前も作者も知らないその像がジョナサン・ボロフスキーのシンギングマン(Singing Man)という作品だと知ったのは三年ほど経った、とある風の強く吹く猛暑日のことだった。夏への扉はもう開いていた。

シンギングマンの存在を知った頃に出会った人が、一番好きな作品だと言ってオススメしてきたという理由で、村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだ。その前年に観て衝撃を受けた『輪るピングドラム』というアニメが村上春樹の小説に影響を受けていたため、いくつか作品(『1Q84』、『風の歌を聴け』、『神の子どもたちはみな踊る』)を読んでいたが、『ノルウェイの森』は未読だった。今となっては当時の感想を思い出すことはできないが、どことなく心に穴が開いたような読後感だったように思う。その読後感を今でも引き出せるかもしれないと思い、映画化された『ノルウェイの森』をNetflixで観てみたが、退屈な映画で物語の雰囲気を思い出せた以外の感想は出てこなかった。

ノルウェイの森』に思いを馳せるきっかけとなったのは『緑の歌』という漫画だった。『緑の歌』は台湾のイラストレーターが描いた漫画で、台湾の少女の緑が、はっぴいえんどの『風をあつめて』や村上春樹の『ノルウェイの森』など日本の文化に触れながら、恋をして、成長していく物語だ。イラストレーター出身の漫画家の作画が綺麗なのは置いておいて、大きなトラウマと不慣れな恋愛感情に対する少女の等身大な感じがとても良かった。そして、一つ引っかかった台詞があった。緑の恋する相手のバンドマンの「音楽ってのは感情のフィードバックだ。だから自分の状態が悪い時はどんなにいい音楽も共鳴することはない。」というものだ。これを読んだとき、自分が高校生くらいの頃、何かの動画を見て気に入ってメモっていた「本当は音楽っていうのは人の高揚とか体温の差とかバイオリズムの変化によって波打って当然。」という椎名林檎の言葉を思い出した。その言葉を聞いたのはたしか、表現と印象は対義語で、送り手が表現で想定していた印象と受け手が実際に受ける印象は変わってしまうということに気付いて納得していた時期だったと思う。『緑の歌』に限らない話なのだが、これまでの経験とか知識とか記憶とか、そういったものが、作品と共に喚起されて頭の中で混ざりあっていくとき、自分の存在を実感するものだと思った。

話は全く変わるが、先月の末、会社の後輩の女の子が退職した。昨年の4月に入社して、1年ほどの間の隣の席同士の付き合いで、たまに喋ったりする程度の仲だったのだが、マスクをしないで対面して会話することはなかった。そういうわけで、彼女が職場を後にして幾日か経過して、彼女の顔を明確に思い出すことはできなくなってしまった。一定以上の会話をして記憶にも残っている人なのに、どんな表情をしていたか分からず、このまま風化していくのだろう。こういったタイプの、人との別れは今まで経験したことがなく、表現することのできない感情になった。言葉にできない感情は30年近く生きてきてもまだまだあるものなのだなと、帰り道の電車の中から少しの間、遠くの空を眺めていた。