霞と側杖を食らう

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名作は名作として生まれてくるのか

 名作とは何か。良いものとは何か。たとえば、映画を見て、その映画は良かったと思うとき、どういうプロセスを経て良いと判断しているのだろうか。直感的に判断していることが多く、何が良かったかと問われた場合、即座に答えることができないことが多い。

 

 フィクションに関して、個人的に良いと思う作品の特徴は次のようなものだと思う。ストーリーそのものが面白い。そのストーリー上で、キャラクターに魅力があり、有機的にかつ自然に生きている。そして、ストーリーに奥行き、深みがある。といったところだろう。こういった自分のツボに気付いたのはシン・ゴジラガルパンを映画館で見た後のことで(そのとき危機感のような何かを抱く。良いと思ってしまうという弱点に気付いたからだろうか。)、以下のようなツイートをした。

「作り込まれているものを見抜く楽しみを与えてくれるものを、考慮なく良いものとしてしまう癖がある。シン・ゴジラガルパンも精巧な造りを何度も見て気付きを楽しむものなんだな。そして、繰り返しの鑑賞に耐えうる萌えやフェチのようなもの散りばめてる。今はこれでヒットする気がする。」

「気付きを多くの人と共有できる環境も重要な要因になるんだな。加えて、ネタバレを避けるためのいいぞの連鎖が好奇心を掻き立てる。新しく観た人がさらなる共有と連鎖を生む。」

 

 気付くことは楽しい。理解できるという掌握感、支配感が楽しいのだろうか。個人的には、気付きによって何かと何かが繋がったとき快感を得る。点と点が線となり、面となり、空間を、多次元空間を作り出すとき、楽しさを覚える。気付きによって得られる精神的な満足感は評価に影響するのではなかろうか。(処理流暢性という言葉がある。脳による情報の処理のしやすさが人の判断に様々な面で影響を与えることが心理学で研究されていて、処理の流暢性が高ければポジティブ,低ければネガティブな判断がされるとのことだ。)たしかに、分からないことは不快だ。

 

 さて、ここで問題となるのが、知識や理解力がない人はどうなるのか。誰にも理解されないくらい難しい作品を作られたとき、それは誰かに理解されるという形で評価をされることはないだろう。(分からない。難しい。だからきっとすごいのだろうという形での評価はありえるが、それは良い(この「良い」は何だ。)のだろうか。デュシャンの泉を思い出すが、ここではこの話は広げない。)「受け手の面白さを感じるアンテナが高いか低いかが名作を決める。アンテナの低い人には面白さは伝わらない。」という議論をする人がいる。これに同意する。表現と印象は対義語なのだ。expressionとimpressionと英語に言い換えれば分かりやすい。作者が表現したものを鑑賞者が受け取り、印象を受ける。作者の意図が正しく伝わらないのは当然であり、思いもよらない評価を受けることもある。分かる人には分かるし、分からない人には分からないのだ。(下ネタというのは多くの人にウケる。誰しもほとんどがその知識を持っていて分かるからだ。)名作は名作として生まれてくるとは思わない。ただ名作は名作としての素質を持って生まれてくるのではないか。その名作を分かってくれる人の到来を待ちながら。

 

この表現もまた異なった印象を与えて。

ちゃんと教育して叱ってくれ

 勉強が何の役に立つのかという疑問を子供に問われたとき、どう答えるか。「子供に「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と言われた時、「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」と返すのが最強」なんて言う人もいる。たしかにそうだけれど、子供に言う台詞ではない。

 

 丁寧に考えるとしたら、役に立つとは何かの定義から始めるべきだろう。「役に立つ」を考えるとき、役に立つ対象は何かをまず考えなければならない。個人にとってなのか集団にとってなのか社会にとってなのか。子供に問われているのならば、その子を対象にすべきだろう。この制御の理論はロケットが宇宙空間でどこに位置しているかを推定するのに使われているなんて説いてロマンを感じる子供もいれば、自分とは関係ないと思う子供だっているだろう。誰かに役に立つとは、その個人にとっての利得関数の出力を高められるということとする。利得関数を高める問題へと帰着した。次に利得関数の設定が問題となってくる。どういう関数形になるのか、その関数形はどれくらいの期間を想定しているのか、関数の入力である自身の選択はどれくらいあるのかなどなど。勉強することは少なくとも選択肢の幅が増えることに繋がる。利得を高める可能性を増やせる。これが役立つことのひとつではないだろうか。

 

 自分はなぜ勉強しているのか。何かを知るとき楽しいからだ。もっというと、頭の中で、知識の点と点が繋がって線となって、線と線で面ができ、立体、高次元の何かに発展していくのが快感だからだ。誰にも邪魔されない頭の中で、楽しめるのだから素晴らしい。ビートたけしは「勉強を教科の範囲内としてしか、とらえられないなら相当頭悪いよ。哲学や論理的思考を養って人生を楽しむ応用が利くように、あえて国語や数学って形でパッケージして教えてるんだよ。それを理解しようとせずに、中身を知ろうとせずに袋詰めのまま「役に立たない」ってゴミ箱に捨てちゃうなら、そりゃ時間の無駄だし人生の無駄だよ。」と言ったらしい。まさにその通りなのだけど、この楽しみ方ができるか否かの差はどこに出るのかが気になるところだ。少なくも自分は金銭的に役立つから勉強しているのではない。楽しいから、楽しさという利得が得られるから勉強している。利得関数に楽しさが組み込まれているのだ。子供たちに教育する場合、この組み込みが大事だと思われる。

逃げるは恥だが、役に立つ

 時間に余裕ができて、ようやく『逃げるは恥だが、役に立つ』の視聴完走ができた。元ネタ盛り沢山のパロディを利用したドラマで、何かから引っ張ってきているのは演出から予想できるが元ネタが分からないものもいくつかあった。有り体に言ってしまえば、そういった引用をちりばめた月並みなドラマであり、もしも、新垣結衣でなかったら成立していなかったであろうなんていう評価もあった。そういう評価も一理あるが、結婚や労働のかたちを問うていて面白かったし、二人の恋の初々しさにどこか心揺さぶられる場面もあった。「可愛いは最強なんです。」、「可愛いの前では服従、全面降伏なんです!」なんてセリフを新垣結衣が言うのには笑ってしまった。なんて面倒な議論からは逃げてみる。

 「三十六計逃げるに如かず」と孫子は言う。「逃げちゃダメだ」と碇シンジは言う。そもそも、逃げるとは何なのか。現状に何か嫌なものがあって、そのものに背を向けてどこかへ離れて行くといったところか。嫌なものが自己とは別にある場合、逃げることは可能である。嫌なものが、その街にあるならば街から、都道府県から、国から出て行けばよいのだ。もっと遠くへ行けるなら、この地球から。U.F.O.の軌道に乗ってあなたと逃避行。嫌なものが自己と分離できないところにあるならば、自己を変えるか、それともこの世から出ていくことになる。

 1000文字も書くのは難しい。今回は、このへんで逃げさせてもらおう。

先ず隗より始めよ

 新しい年がやってきたので書き初めをしようと思う。書き初めで終わりにはせず、これから日々、1000文字程度の文章を書き残していこうと思う。なぜ1000文字程度にしようと決めたかと言うと、新聞の出す社説の文字数がだいたい900文字なのだと見たからだ。テーマも文体も真偽もクオリティも気にしない。はじめることは難しい。原研哉の『白』にあるように白に筆を入れるのは不可逆的な行為である。白の不可逆性が生み出した推敲という美意識がはじめる手を止めてしまう。そこで、この場においては、その美意識を取り払ってしまうことにした。

 そもそも、この1000文字チャレンジを開始しようとしたモチベーションは何か。それは圧倒的に文章を書く力が低下していることを実感したからだ。専門課程に入ってからは、140字の駄文を書き連ねる日々は過ごしてきたものの、長い文章を書いた経験があまり無い。文と文のつなぎ、段落の構成や大筋の流れを考える力が衰えている。文系だというのに、文章も書けない、数学もできない。中途半端なキメラ的存在になりさがってしまっている。弱小キメラ的存在からの脱出を図りたい。これが1000文字チャレンジの動機である。

 はじまりはいつも雨。始めるのはいつも難しい。慣性の法則は物理法則であるけれど、精神的にも適用できると昔から思っている。止まっている物体を動かすのに必要なエネルギーは動いている物体を動かし続けるのに必要なエネルギーより大きいのと同様に、勉強を始めるのは億劫で仕方がないけれど、始めてしまえば、けっして大変ではない。とりあえず、始めてみるということが肝要である。

 今年は酉年だ。生まれてから干支が二周してしまったようだ。昨年は、このままではダメなのだと思い知り(元から分かってはいたが)、再構築の契機を得た年であった。自分を一回バラバラにこわして、一から再構築を試みねばならない。三月のライオンのワンシーンである。今年は再構築して飛躍の年にしていきたいものだ。