霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

拉麺の告白

「僕には、僕を殺してほしいという欲求があるんだ。心に棲まうモンスターみたいな欲求なんだけど、けっして自殺願望なんかじゃない。けして、そんなもんじゃない。自ら命を断てるほどの選択は僕にはできやしない。そして、連続殺人犯だとか強盗、通り魔だとかにナイフで刺されたいとか銃で撃たれたいなんて欲求でもない。物理的な、生物的な死を求めているわけじゃないんだ。心臓が止まって、脳が動かなくなって、楽になりたいっていうものではない。いや、ちょっと近いかもしれない。思考を止めて、苦しみから逃れて、楽になりたい。これが僕の欲求に似ている。こんな欲求が満たされる瞬間は普段、ふつうに生きていても手に入りやしない。でも、ごくたまに、そんな瞬間は訪れるんだ。そんなときを過ごしている間は、言葉じゃ良い表せないほど、幸福なんだ。でも、その間に、何かを意識しているわけじゃないから、実は記憶にとどまっちゃいない。ただ、幸福だった気がする。そんな気持ちが、終わった後に残っている。残り香のような幸福感に浸っていられる。僕が殺されている瞬間というのかな。我を失っている瞬間。主観を無くして客観に入っているような。忘我の境なんて言葉が近いのかもしれない。じゃあ、いったい、いつその瞬間ってやつはやってくるんだって話なんだよね。いちばん、かんたんに僕を殺す方法ってのは、集中することさ。もちろん、かんたんって言ったって誰もがいつでもできるわけじゃない。自分のもってる能力の限界を引き出して無意識に何かに集中して取り組んでいるとき、その瞬間はやってくるんだよ。勉強だってスポーツだってかまわない。この方法に似たようなことは宗教だとかで行われているんだと思うよ。ただひたすらに祈るだとか、お百度参りだとか、イスラム教のぐるぐる回って踊るやつなんてのもそういうことなんじゃないかなって僕は思ってる。単純な行為をなんべんもなんべんも繰り返して、自分を忘れてしまうというのが狙いなんじゃないかなって僕は思ってるんだ。まぁ、そんな二つの方法のほかに、もうひとつやり方があるんじゃないかって最近気づいたんだ。自分より好きな、自分のことを好きな人を好きでいることなんじゃないかなって。自分より好きな人がいる自分が好きなのなんて歌っているバンドがあったっけ。つまりはそういうこと。自分じゃない誰かに没頭しているときってのは、僕が殺されているときなんだよ。君のキスや匂いが僕に生きた心地を与えてくれるなんて英語で歌ってるバンドもあったね、タイトルはなんだったかな。思い出せないし、この話は、このへんでおしまいにしよう。あと、最後に、ひとことだけ。僕はラーメンが好きだ。食べた後、美味しかったっていう幸福感に浸れるからね。」

唇から零れ落ちたラララ

 小さい頃から、なんでもできるひとへの憧れがあった。小さい頃は、兄のすることを真似して、なんでも自分でやりたがった。靴下を人に履かされることを嫌がり、自分でやると必ず言っていたそうだ。そんな記憶はないけれど。兄の真似をして塾に通って勉強をして、中学受験を受け、私立の中高一貫校に入った私は、レオナルドダヴィンチを知る。ダヴィンチコードを読んだからだった気がする。『モナリザ』や『最後の晩餐』などの絵画だけでなく、広範囲の分野で業績を残して、万能人なんて呼ばれていることを知った。このとき、天才へのあこがれのようなものを抱き始めた。こうして、天才、頭の良い人、すごい人がどういう思考をしているのかを探していくことになる。中学2年か3年の頃、本屋でふと手にしたのが『ドラゴン桜』だった。これを読んで、なんとなく東大を目指そうと思ったはずだ(その頃、学校での成績は大して良いわけでもなく、担任との面談で志望校を東大って言ったら、笑われた記憶がある。)。その後、勉強の仕方やモチベーションの維持の仕方について考えるようになる。とくに、影響を受けたのが、吉永賢一の『東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法』という本だった。「覚える、わかる、慣れる」を繰り返す。この本から教わったやり方を試験前に実行して、成績がどんどん伸びていった。常に勉強しているような人たちには勝てなかったけれど、校内でも上位の方に入れるようになった。結果として、諸事情を経て浪人したとはいえ、東大に入学できた(メンタリティーとしては、スピードスケート金メダリストの清水宏保に学んだところもある。他に、浪人しているときは将棋を少し学んだ。高校数学は五手詰め、難しくとも七手詰めの詰将棋みたいなもので、将棋の奥深さに比べたら簡単だと考えたこともあった。)。高校までの勉強や大学受験の勉強はこれで十分だった。


 勘違いの全能感を溢れさせている大学新入生はよくいるが、自分がトップになるような経験はなかったし、浪人していたこともあって、そのようになることはなかった。ただ、それまでの勉強の仕方に疑問はとくに抱いたりすることはなかった。しかし、学部後半になり、経済学や統計学を真剣に勉強するようになってから、どうも周りの優秀な人々と、論理の思考スピードや知識の吸収速度が違うことを感じるようになった。やみくもに繰り返して理解吸収していたそれまでのやり方が通じなくなっている。そのやり方では時間が全然足りない。もっと深く確実に一歩一歩足を進めていくような学び方が必要だと感じた。狭義院死を経験したことが大きい。そんな時期に読んだ『3月のライオン』という漫画の台詞が深く心に突き刺さった。「タイトル戦でふっとばされた人間はね、みな一度は調子を崩す。それはね、当たり前。このままじゃダメなんだと番勝負の間に徹底的に思い知るからだ。そして、自分を一回バラバラにこわして再構築を試みるからだ。また一からな。」


 現在、こわして再構築する段階にある。どうすれば頭が良くなるのか、才能とは何かを模索している。『SHIROBAKO』の「才能っていうのは、何よりまずチャンスをつかむ握力と、失敗から学べる冷静さだと思う。僕は僕より上手い人間が、わずかな自意識過剰やつまらない遠慮のせいでチャンスを取りこぼしてきたのを何度も見た。」という台詞や将棋の羽生善治の「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」という言葉を参考にしながら、万能を夢見て。

起源にして、頂点

 就職活動が解禁された。3月1日に日付が変わった途端、企業の採用ページへのアクセス戦争が開始された。アクセス集中で繋がらない。早い者勝ちの席取り合戦だからだ。深夜0時に無駄な争いを繰り広げるなんて不毛でしかない。こういった非効率の極みを生み出す仕組みが大嫌いだ。消えてしまえばいいと思いながらも、従わないと損するのはこちら側なので、仕方がなく従う。午前2時くらいにアクセスしなおして、説明会など諸々のイベントの席を予約しておいた。

 就活生すなる合説といふものに参加してみた。「文系」と書かれた札をぶら下げるよう指示され、各企業のブースの席に着かされる。若手の社員がどういう志望をして就職したのかを説明してきた。そういう人を求めているというメッセージなのかもしれないが、なんとも面白くない。定番な理由を書き並べただけで、嘘臭いからだろう。100%嘘だとは思わないが、どうも半分くらいは真ではない気がする。それがどうも、下手くそな演技の役者のドラマを見せられている気分だ。

 かといって、志望理由を明快にしてエントリーシートを埋める番が自分に回ってきている。過去を整理して、原体験を洗い出し、自分の真に求めていることを探し出さなきゃいけない。今自分がやっていることややりたいことに対して原因となりうる過去の大きな体験は見つけ出している。しかし、実際は曖昧模糊に五里霧中に駆け抜けて今があるだけで、原因ということに帰着させているだけなのかもしれない。理路整然としたストーリーを紡ぎだしているだけで。

 一つ、自分の人生観として、人の行動は、その人を取り巻く環境構造と、その人の内部の利得構造によって決定されるものだという見方がある。ゲーム理論の考え方に近いものを、ゲーム理論を知る前から持っていた。人が何か悪い行動をしているとき、それは基本的にその構造が悪いものだと考えていた。水が高いところから低いところに流れるように、アリがアリ地獄から抜け出せないように。このような考え方をしていると、誰かに対して怒りの感情はなかなか抱かなくなる。行動の原因を察することができれば仕方がないと思うのだ。そうなるべくしてそうなってしまっている。構造を変化させないとダメなんだと。ただし、この諦観的な態度は他人への期待の低さとして、他の人に捉えられることになる。一度、これで人に怒られたことがあるが、この人生観はなかなか変えられない。きっと、この人生観は、災害や事故、家族の急死といった自分ひとりの力ではどうしようもないことが襲い掛かって、無力感に苛まされながら、編み出されたものなんだと思う。

冷たい水をください

 旅をしたい。今いるこの場所から離れて、自分を知る人が誰もいない遠い場所へ行きたい。何も知らない場所で、何からか知っていく。そんな体験をしたい。なんて考えることがたまにある。現実逃避的な欲求だろうか。もしそうならば、今いるこの場所にて問題が生じているのだろう。解決できるなら、してしまえばよい。それができないから逃げたくなる。逃げ先には外向きと内向きがある。外向きへ行く場合、それが一時的であれば散歩や旅行であるし、継続的であれば移住である。さらに遠くへ向かっていく場合、自殺である。しかし、外向きに行く場合、コストがかかる。そのような理由で外へ逃げられない場合、内側に引きこもる。内側へ内側へとこもっていく。それが一時的であればよい。だが、継続的になってしまう。ひきこもってしまう。動かなければ、どんどん動けなくなってしまう。筋肉も衰え、脳や神経も衰えてしまう。そんな状態で出ていけないと考えてはまた出ていけなくなる。負のループが始まる。社会の一般的なレールから外れて、他人からの視線や評価が自分の利得構造の中で小さくなる。どれくらいのペースで動けばいいか分からなくて困る。どの程度のペースで動けばよいのかを探るコストは意外に大きい。人と同じ行動がとれなくなる。負のループはこうして続く。脱却には大きなエネルギーが必要だ。そのことを知らずにループにはまってしまう。

 旅人と言えば、スナフキンを思い出す(ムーミンは今年のセンター試験でひと騒動合ったらしい。阪大の外国語学部のスウェーデン専攻の方々が公開した見解が良かったので、http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/swedish/ 記録しておく)。「いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。理由はかんたん。時間がないんだ。」「大切なのは、自分のしたいことを自分で知ってるってことだよ」だとかいくつかの台詞を気に入っている。旅人は定住する共同体にとって異質だ。異なったものをもたらす。(こういった内容は、赤坂憲雄の『異人論序説』に詳しい。数年前に読んだが、とても面白い本だった。)

https://www.amazon.co.jp/dp/product/4480080155/ref=as_li_tf_tl?camp=247&creative=1211&creativeASIN=4480080155&ie=UTF8&linkCode=as2&tag=bookmeter_book_image_image_pc_logoff-22

 

他に旅人で連想するのはキノの旅少女終末旅行であるが、ここではこれ以上連想するのはやめておく。

 「旅人に尋ねてみた。どこまでいくのかと。いつになれば終えるのかと。旅人は答えた。終わりなどはないさ。終わらせることはできるけど。」と口ずさむ。この歌は小学生だった自分が音楽を聴き始めるきっかけとなった歌だ。その後、この歌では、見送ったはず旅人が自分自身だったことに気付く。少しは頭を使えるようになった小学生の頃の自分は、このパートがとても好きだった。(もちろん、全体を通して好きであったし、今もそれは変わらない。)そこが自分の音楽の原点であり、そこから旅立っているのだ。

 つらつらと、思いつくままに思考の旅を続け、書きなぐったものだ。旅をしたい。

そして伝説へ…

 昨年、サクラクエストというアニメを見た。P.A.WORKSというアニメ制作会社のアニメだ。以前、同じ会社のSHIROBAKOというアニメを見て大変よいと思っていたことが、サクラクエストを見た理由だ(SHIROBAKOの良さについては紙幅の都合上、ここでは書けない。)。サクラクエストのあらすじはこういったものだ。就活に苦戦していた主人公の木春由乃がひょんなことから田舎町の間野山の観光大使として1年間働くこととなり、4人の仲間とともに間野山の町おこしを手伝っていく。正直に言うと、惰性で最後まで見た。最近の地方創生への関心の高まりからゆえ見続けていた。そんな中、Twitterでたまたま『『サクラクエスト』がつまらないと言われ続けた本当の理由』というブログ記事が流れてきた。

http://knock88.xsrv.jp/wp/2017/09/16/サクラクエストつまらない/

前半の活動が外向きで、後半の活動が内向きだという解説は的を射ており明快だった。サクラクエストがつまらないと言われる理由は安易な面白さ、安易な人気を求めることを切り捨て、本当に伝えたかったことを伝えるためと述べられている。また、そういった媚びない姿勢を筆者は好んでいる。サクラクエストが安易な人気を稼ごうとしていないのは個人的に同意するし、媚びない姿勢も良いと思うが、伝えたいことを本当に伝えたいのならば面白くあるべきだと思う(同じように地方創生を扱った『地方は活性するか否か』という漫画も読んでみたが、言いたいことは分かるが面白さに欠けていた。))。この点においては食い違うが、全体通して良い記事だった。サクラクエストを捉えなおすきっかけとなった。

 最近、存続の危機にさらされているバス路線のある地域の公共交通の維持を目的とした政策案を考える機会があった。国交省の地域公共交通の活性化・再生への事例集が

http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/htm/all.html

にあり、参考にした。路線の改定だとかデマンド交通だとか工夫した事例をいくつか見たが、どこか違和感を抱いた。その違和感の正体は、そういった工夫が延命治療のようなもので、決して抜本的な解決とはなっていない点だろう。サクラクエストのストーリーでも山奥の集落にデマンドバスが導入された。ただ、そこには、いつかその集落は限界を迎えることを理解していて記録を残そうとした研究者がいた。アニメに出てきたような過疎化が進んだ限界集落は日本にも多く存在し、それらはきっといつか滅びるだろう。だからといって、延命治療ではない抜本的な解決が思いつくのかというと全く思いつかず、そんな自分の無力さが少しかなしい。だんないよじゃないんだよ。

ggplot2の学習記録

【学習動機】

ggplot2はグラフ作成パッケージ。実際にデータ分析をする際、データの性質を大まかに把握するために作図による可視化が重要性に気付いた。ggplot2では手間をかけずに美しい作図ができるらしいと聞いて、学習することにした。

 

【学習記録】

ggplot2のggとはGrammar of Graphicsのこと。geomはGeometric Objectsのこと。

 

slideshareなどで軽くお試ししてみた。

 ・ggplot2によるグラフ化

https://www.slideshare.net/nocchi_airport/ggplot2-kazutan-rver2

 

・ggplot2再入門

https://www.slideshare.net/yutannihilation/ggplot2-53851875?qid=b6d92483-4bf0-4858-b8d7-a6f02c3fff12&v=&b=&from_search=1

 

・ggplot2用例集入門編

https://www.slideshare.net/nocchi_airport/ggplot2-62471507

 

・ggplot2逆引き

https://yutannihilation.github.io/ggplot2-gyakubiki/

 

その後、体系的に詳しく学ぼうとしてみた。

Rで学ぶデータ・プログラミング入門 : RStudioを活用する / 石田基広

https://www.amazon.co.jp/グラフィックスのためのRプログラミング-H-ウィッカム/dp/4621061356/ref=pd_sim_14_4?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=8C2QV7S49VJRNZJZNZXN

 

【学習予定】

ggplot2でグラフ作成を学んだら、データ操作に詳しくなる必要がありそう。dplyrというパッケージが便利らしい。これに慣れておくとSQLの操作も理解しやすくなるみたいなので、これを学びたい。

 

他の短を挙げて、己の長を顕すことなかれ

「君は人を下に見ていないか?」と問われたとき、どう受け答えればよいだろう。

 たとえば、人並み以上に勉強ができる人がいるとする。その人(甲)がその人より勉強ができない人(乙)に対して勉強を教えるとき、甲は、乙がどこまで理解できているか、どの程度の説明でどれくらい理解できるかを感じ取りながら教えていくかもしれない。理解度や理解力に関して評価しながら教えていくことは考えられる。これは勉強という基準を例として用いたが、スポーツにしろ、何にしろ、教える側が教わる側に対して同様のことが起こりうるだろう。ここで、甲は乙に対して、ある意味では下に見ていないだろうか。

 上のケースでは教えるという行為の要求してくる上下関係ゆえの特殊性かもしれない。ところが、ある基準、ある次元において、他の人の理解度、理解力を心の内に評価しながら、行動しているケースは他にも多く存在しているのではないだろうか。女子集団における容姿の長けた女の子はそうでない女の子に対して容姿を褒めた場合、乙は甲が馬鹿にしているように聞こえるかもしれない。馬鹿にしているように聞こえるかもしれないと考える甲はそんな発言しないだろう、どこか心の内で容姿に関するランク付けをしながら。耳が聞こえない人がいたら、その人は普通の人は耳が聞こえないという経験をしたことがないだろうから、自分が当たり前だと思っていることを他の人は当たり前だと思っていないだろうと考えながら行動するだろう。

 人は社会で生きていく中で、自分の立ち位置を把握して行動を規定していくものだと思う。サルならば、その強さのみを気にしていればヒエラルキーが完全に決定されるかもしれないが、人間の強弱の次元は数えきれないくらい多い。容姿、勉強、スポーツ、音楽、美術、面白さ、その他諸々の能力が存在する。自分の強み・自分の弱みをそれぞれ把握していく。逆に他の人が相対的にどうなのかを考える。こういったときに、人を下に見てしまう事象は当然発生する。人を下に見ることの問題点は、きっと、その事象に付随しうる嘲笑的な態度だろう。その態度が無くただ事実を、事実と思われることを把握することは悪いことだろうか。以上の説明は、冒頭の問いに対する受け答えとして悪いだろうか。まだ納得のいく答えは得られていない。