霞と側杖を食らう

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狂気の沙汰ほど狂おしい

東京ステーションギャラリーで開催されていた「佐伯祐三 自画像としての風景」へ行ってきた。この展覧会に惹かれたのは理由が2つあった。一つは、以前山種美術館で目に留まった絵にレストランの絵があって、その絵の作者が佐伯祐三だったということ。もう一つは、そのとき佐伯祐三が30歳で亡くなっていることを知ったのだが、その後、東京都美術館の「エゴン・シーレ展」でエゴン・シーレが28年で生涯を終えたということを知って、共通性が気にかかったということだ。夭逝した才能として扱われているだけあって、印象に残る絵も多くあった(ただ、来場者が多くて、少し息苦しかった)。とくに、パリの街並みに貼られたポスター広告をテーマにしている作品は面白かった。

広告業界を扱っている『左ききのエレン』を、個人的に半年ほど積んでいたのだが、つい先日、全巻読み終えた。正直に感想を言うと、周りの評価と積読期間の熟成で高まっていた期待を全く越えてこなかった。全体として疾走感があったのは良かったが、いくつか引っかかった点がある。まず第一に、全体としてキャラの軸がブレブレで安定感がないように見えた。第二に、光一にそこまでエレンを惹きつける魅力があったかという疑問だ。エレン以外のキャラクターが光一を気にするのは、関心が集まることによる相乗効果ということで理解できるが、エレンの光一へのこだわりは、行動原理同様によく分からなかった。亡くなった父親との重ね合わせもあるかもしれないが、どうも諸々が弱く感じた。第三に、作者は広告業界については詳しいかもしれないが、その他の節々が分かっていなさそうな感じを受けた。とりわけ、天才への解像度がとても低い。才能を集中力の分類で片付けて、あとは少年漫画の必殺技にして勢いで済ましている。才能に対する必死な肉薄の跡もなく、一貫したメインテーマである「天才になれなかった全ての人へ」という言葉は、imperfectな人間の少なくとも一人である私には全然響いてこなかった。むしろ、作者自身への慰めの言葉として強く聞こえてしまった。

才能の追求をテーマとして扱った映画として、『セッション』がある。デイミアン・チャゼルの新作映画『バビロン』の公開記念ということで過去作の『セッション』が新宿ピカデリーで再上映された。『セッション』は配信やテレビ放映で何度か観ていたが、劇場でぜひ楽しみたいと思ったので、即座に予約をとって観賞してきた。映画館の映像と音響で、あの才能と狂気を、あの演奏を体験できて良かった。才能の高みへの狂った追求を狂っているとしつつも、ラストシーンは極まった結果、二人の口角が上がって終わるのだから、その追求は間違っているけれど間違っていないという表現なのだろうかと思ったりもした。

後日、『バビロン』も映画館で観てきた。最初は大便小便吐瀉物まみれのドラッグ糞映画かと思ったが、最高にクソ面白い映画だった。1920年代の映画界の栄枯盛衰が描かれて、これはまさにチャゼルの描く平家物語か!!ってなった。映画史に詳しい人たちと一緒に観賞したいとも思った。『バビロン』が映画を作る側にスポットライトを当てた映画だったので、関連して、以前から気になっていた『映画大好きポンポさん』を配信で見た。『セッション』を観てから狂気について考えていたところで、物語中盤でのポンポさんのセリフに「ようこそ 夢と狂気の世界へ」とあって驚いた。原作は未読なのだが、ポンポさんの設定として好きな映画に『セッション』が挙げられているらしい。『映画大好きポンポさん』の原作者も、きっと狂気の沙汰で生まれた何かに酔いしれたことがある人なのだろう。主人公、および、映画内映画の主人公を通して、他のものを切り捨てて、一つのものに執着し、全てをそこに捧げる姿が描かれていた。

狂気の産物は、誰かを歓喜させるかもしれない。誰かの人生を180度転換させてしまうかもしれない。誰かを地獄の淵から救い出すかもしれない。狂ったほど極まったところの到達点にしか現れてこない魅力が、創作や研究、パフォーマンスなどにはある。一方で、魅力がある反面、肉体的健康や精神的健康だとか労働環境だとかコンプライアンスだとかその他諸々は度外視される。視野の外に置かれたこれらは間違いなく大切だ。社会的にも重要性がどんどん増してきているように思う。このような状況の中で、狂気とその他諸々の狭間でジレンマティックな状況にいる人は、一定以上存在するのではないだろうか。少なくとも私はその一人でありながら、狂気の側には身を置けず、その他諸々の側に立ちながら、狂気の側に憧憬を抱いている。だからこそ、『セッション』や『映画大好きポンポさん』の狂気の賛美に心震わせられたのだろうし、『左ききのエレン』に対して劇的な描写か不完全な人間への鎮魂と激励を強く求めていたのかもしれない。

こんなことを書き連ねていたら、そういえば、東大の応援歌のタイトルは『ただ一つ』だったなと思い出したが、メロディーは全く思い出せないなと、少し笑った。