霞と側杖を食らう

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血は鉄の味がする

ポケットモンスター、縮めてポケモン。23年前からあるこのゲームが未だに人気を博している。いたるところで流れてくるポケモンの動画を見ると、長らく抑えているゲームをしたい欲求が強く刺激されてしまって辛いものがある。3歳からゲームをやっていたが、15歳の頃、このままゲームばかりしていてはいけないと思い、積極的にゲームをすることをやめたのだった。それ以来、ポケモンはプレーしていない。

昔からゲームは好きだ。いわゆるビデオゲームといった類も好きだし、ボードゲームやスポーツも好きだ。ゲームの良さは、そのルールの範疇であれば自由でいられることだ。相手の利得を損なうようなプレーをしても、そのプレーが影響するのはゲームの中で基本的に完結する(当然、ゲーム内の行為が、現実での人間関係や感情といったものに影響することもあるが、ふつうはゲームの中で閉じている。)。ゲームの中だけで、自分の利得と相手の利得、互いの戦略を集中して考えれば良い。余計な人間関係などを思考の外に置いておける。ゲームの中のルールという限定された制約が、自由へ誘ってくれるのだ。

ゲームの中で相手が予想外の狡猾なプレーをしてきても、それがルールの範囲の限りであるならば(そして、余程人道を外れた行為でもなければ)、それを楽しめると思う。自分で思いつかないような戦略に対する好奇心が刺激されるのだろう。お笑いの芸と一緒で、想像を超えてくるものは面白い。一方で、現実における、自分の利得を増やすために他人に損失を被らせようとするプレーには怒りがこみ上げる。たとえば、ぼったくり居酒屋、トンデモ療法を拡散する芸能人、マルチ商法の渦に巻き込もうとしてくる人々、そのような悪意に満ち溢れた構造を作っている人々。現実における悪意が嫌いだ。どこまで考え込まれた行為なのか闇の中なのも嫌だ。どこまで戦略的で、どこまで用意周到に準備して、どこまで悪意を持っているのか判断しきれない。人を疑うことは、心のコストを消耗する。人を騙して、相手を傷つけ、自分だけ得をしようとする、そんな悪意が大嫌いだ。この正義感のような何か感情的なものが腹の底から湧き上がる情動も苦手だ。スイクンに草むらでエンカウントしたときのような、あの頃の気持ちでただ生きていきたいのだ。コンテムツスムンヂ。