霞と側杖を食らう

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怪物の行方は、誰も知らない

ある日のレイトショーの事である。『怪物』という映画を私は観た。是枝裕和×坂元裕二×坂本龍一のタッグの映画と聞いて、観に行かないわけにはいかなかった。強く印象に残ったのは、怪物の唸り声のような金管楽器の音と、クラスメイトの女の子が読んでいる漫画と、車両の内側からの窓の描写だった。以下、ネタバレを含む感想を書いていく。

さて、この映画には、怪物だーれだという問いかけがある。この問いに対する答えを出そうと、上映時間で誰が悪者なのかを探してしまう。怪物は、息子なのか?母親なのか?担任の先生なのか?友人なのか?校長なのか?描写される事態を整理しながら、怪物探しをすることで、集中が切れることなく観賞することができた。

物語は三幕構成で、一幕目は母親の目線から始まり、暴力をしていると思われる担任の先生やいじめに関わるクラスメイトへのヘイトが集まる形で終わる。二幕目は担任の先生の視点から描かれる。一幕目の印象からは一変する。担任の先生には彼自身の事情や背景があるし、一幕目の描写とはどうも異なっていると思われる部分もあり(羅生門形式と呼ばれるもので、同じ出来事を複数の立場から描く様式で、その視点の主観が入る描写になっているのだろう)、担任の先生へ同情するようになる。そして、最後、緊迫した場面(嵐の中で土砂をかき分ける、窓の描写)で、次の幕へ移る。最終幕では、息子と友人の視点になる。二人の関係性は前の二幕から予想はできていた(クラスメイトの女の子の漫画もそれを示唆している)が、それが確信に変わり、全体像が把握できる。怪物の唸り声のような金管楽器の音の正体は、校長と息子の音楽室でのやり取りで発生したことも分かる。

さて、怪物は誰だったのか。個人的な見解として、怪物とは誰か個人というわけではなく、個人個人の思考や言動が絡み合うことで作られてしまう、どうしようもない巨大な流れだという結論に至った。流れのきっかけになるのは情報の認知だ。人はその人の視点やその思考のフレームからしか認知できない。担任の先生がガールズバーにいたという噂も、火事の現場近くで学校の生徒たちが動画を撮っていたことによるものだろう。息子がいじめられていると思ってしまうのも、水筒に泥が入っていたという情報などから推測している。事実の断片の情報から憶測して認知されてしまうため、実際とは異なった理解というものは頻繁に起きる。そして、このようにして起きた誤解から、それぞれの倫理観や正義感、利得勘定をもとに人々は行動する。誤解は尾ひれはひれを付けながら、拡散されていき、それらをもとに決定される人々の行動は積み重なって、大きな流れになる(選択の積み重ねがストーリーの流れを決定する点や、嵐のシーンが相まって、ライフイズストレンジというゲームを思い出したりもした)。この巨大な流れが悪い方に作用し、人々を傷つけるとき、怪物となる。これが怪物の正体だと思った。

怪物の正体の解答が正しいかどうかは分からないが、これを正解だとしたとき、観客自身もまた巨大な怪物を育て上げる一員になりうると突きつけいるようにも感じられた。というのも、この映画では、解釈の違いが生まれるように曖昧さが残されていて、回収されていない点(たとえば、最後のシーンの、二人が明るい景色へ駆け抜けていくシーンが、死を表すものなのか、明るい未来へ希望を抱かせるものなのか、結局救われないという逆に絶望的な結末を意味するものなのかは解釈が分かれる)について、観客それぞれの記憶や理解をもとに語り合ってしまう。これと同様のことをあなたは普段からやっているだろうというメッセージを感じる(これもまた勝手な憶測なのだが)。怪物は誰かではなく、怪物を生むのはあなたたちでもあるのだと。

このように怪物を解釈したとき、怪物の責任はどこにあるのだろうか。『群集心理』だとか、伊坂幸太郎の『魔王』、ハンナ・アーレントだとかを思い出すけれど、このへんの議論はどうなっているのか気になるところである。もう一点気になるのは、今回の映画では人々のそれぞれの行動が積みあがって流れを形成して自然発生的なものだったが、現実においてその流れを狙ってコントロールすることはできるのかということだ。こういう話は昔から自分の関心だったように思う。怪物の解釈の原因はそこにあったのかもしれない。