霞と側杖を食らう

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俺の次に計算の速いヤツが出来たな

 私は同時に三つ以上のことを考えるのが苦手だ。疲れていると二つですら厳しい。たとえば、疲れて家に帰ったとき、脱いだ靴下を洗濯機へ、ポケット に入っていたゴミをゴミ箱へと考えていて、危うく靴下を捨ててゴミを洗濯しそうになってしまいそうになることが多々ある。頭の中の情報処理系がマルチタスクに適するよう訓練されていないのだ。マルチタスクを苦にしない人が世の中にはたくさんいて、そういう人の所作を見て、感心させられるものだ。

 マルチタスクが得意な人であっても、人間なのだから、一定時間に処理できる情報量は限られている。そんなわけなので、その限界を超えて情報を処理したい欲望に応えるためには、複数人で協力すればいいということになる。アダム・スミスが分業で生産性が上がることを説いたように、複数人で情報処理を分業すればきっと処理可能な情報量も増大するだろう。実際に、社会だとかインターネットだとかが処理している情報の量は個人ができる量をはるかに超過している。そんな膨大な処理能力といえども有限だ。立法、司法、行政、マスメディア、企業、教育、その他諸々、できることは大量で多種多様であるけれど、結局は、その機能の限界を意識すべきだと思われる。政府が施行できる政策も、学校が教えられるカリキュラムも、マスメディアが報道できるニュースも、制約が課されている。より効率的な情報処理の資源配分を目指していくならば、社会総体として有限な情報処理量を意識した方がいい。

 こんな、ごく当たり前のように見える話をわざわざ書いているのは、ZOZOTOWNの元社長が昔100万円を100人配るキャンペーンをやっていたことを思い出したからだ。あのとき、あの社長は、誰にも迷惑をかけてないから、何も悪くない、といったことを発言していて、どこか違和感を覚えたような気がする。その違和感を思い出したのだ。総額1億円を配るというキャンペーンは人々の話題をかっさらっていった。話題をかっさらうということは人々の情報処理能力の一部をその話題の処理に充てさせられているということだ。仰々しく書いてしまったが、これはきっとマーケティングの本質なのだろう。つまりは、人の頭を占有してしまい、他のものについて考える隙を与えないということだ。これは普通の広告がやっていることと一緒なのだけれど、普通の広告ならば、プラットフォームであるとかメディアであるとかがあって、宣伝したい人はプラットフォームやメディアの所有者に対価を払って、それらに広告が掲載され、それらの利用者が利用料を払うことなく使用できるという形になっている。だがしかし、かのキャンペーンは、その経由をなしにしている。普通の広告では、経由があることが利用者にとっての共通知識であるので、公告による占有行為を甘受できる。一方で、その経由なく、唐突に占有されると少しムッとくる。迷惑がかかっている。とはいえ、流行であるとか、世代のブームだとか、時代の移り変わりであるとかは、そのような占有によるものなのだろう。ただ、情報処理の限界というものが存在して、それを人間というものは意識していく方がいいのかもしれない。

 この記事もまた、人の情報処理資源を消費させているのかもしれない。それに見合った価値はあるのか、それともないのか、定かではない。たぶん、ない。