霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

文字禍福は糾える縄の如し

「文字は、まるで奇跡ですよ」、このセリフが出てきたのは、『チ。-地球の運動について-』という漫画だ。この漫画は、異端な思想として弾圧される地動説というアイデアに魅了された人々が、命をかけて地球の運動の研究を進め、思いを繋いでいく話を描いたものだ。異端審問官に弾圧されようとも、地動説への思いは、文字を通じて後の世代へ伝わっていく。文字を通してならば、空間的にも時間的にも離れた人の意思を受け取ることができるし、受け渡すこともできる。そういうわけで、文字は奇跡なのだ。漫画のコマ割りは四角四角で単純なのだけれど力強いカットの変化や、癖になる自由なルビの振り方が面白く、これらを通して作者の思いは読者の私にも伝わった。

別の科学漫画で、『DR.STONE』という漫画も読んだ。人類が突然、石になってしまって、数千年経過した世界で、たった一人で石化が解けた高校生の少年が科学の力を駆使して文明を1から取り戻していく漫画なのだが、とてつもなく良くできたサイエンスフィクションだった。この漫画のテーマは、問題解決のために未来へとただ地道に楔を打ち続けることの大切さだと思う。このテーマは最初から最後まで一貫していた。この繰り返されるテーマに加えて、ラスト数巻あたりで、科学を介して思いを託された、とあるキャラクターの孤独な奮闘に思わず涙してしまった。『DR.STONE』も『チ。』も、信念を託す場面で役立ったのは、やはり文字だったのだ。

DR.STONE』を読んでみて、人類の歴史というものが気になったので、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んでみた。この本では、人類の歴史を、認知革命、農業革命、科学革命の3つの革命を経た流れで説明している。ホモ・サピエンスはまず、認知能力が向上したおかげで、情報伝達能力が上昇した。さらに、言葉を使った想像上の現実、つまり虚構を作る能力を手に入れた。このおかげで、ダンバー数と言われる150人を超えた集団を形成して、見知らぬ人とも協力した行動できるようになった。その後、動植物種の分布の関係もあり、中東、中国、中央アフリカの地域で家畜化や栽培化が始まり、農耕社会を築いていった。この結果として、生まれる食糧余剰が政治・経済・宗教・文化の原動力となっていく。こうして、社会は、持ち前の虚構能力に支えられた貨幣と宗教の力で、さらに拡大していき、世界の一体化へ向かっていく。帝国として拡大して、資本を蓄積し、科学を発展させ、さらなる拡大を促す。このループを繰り返し、ヨーロッパの国々は覇権を握っていった。かなりざっくり要約すると、こんな感じだろうか。虚構を操る能力が人間の中で重要な役割を負っているというのは、自分の直観とも合っていたし、世界史の断片的な知識の復習になったものだから、面白い読み物として読んでいた。

しかし、この本を読んでいたところ、ユヴァル・ノア・ハラリへの批判記事(https://www.currentaffairs.org/2022/07/the-dangerous-populist-science-of-yuval-noah-harari)がtwitterで少し話題になった。この記事は、Darshana Narayananという神経科学者のジャーナリストが書いたものだ。『サピエンス全史』等の著作には多くの誤りが含まれているにも関わらず、巧みな語り口で数多くの読者を魅了し、ハラリが科学の権威的立場に立ってしまっていることを、"Science populists"という言葉を使って批判している。『サピエンス全史』に関する誤りの指摘は、進化生物学の観点から歯がゆい表現、動物の言語に関する表現、ヒョウとチーターの混同、エクアドルの民族の事実関係、未来の予測の誤りといったところだった。これらのファクトチェックの粗さから、徹底的に検証すれば、もっと大きな粗が出てきて瓦解するだろうと推察している。この記事の指摘が、どれくらい的を射ていて重要なものなのか、個人的にはよく分からないところもあってモヤモヤした(研究者の仲間に聞いたら、こんな違うって言ってましたわーみたいな書き方なのも、少しひっかかった)。雑さの指摘であれば、5年前に書かれていた書評(https://shorebird.hatenablog.com/entries/2016/11/01)の方が良いように感じた。

歴史学者が人類の歴史を語るために、生物学周辺の知見を使っていることや、おそらく専門ではない幅広い射程の歴史を扱っていることから、こんなことになっているのだろう。レファレンスの少なさも雑さ加減の問題な気がする。少なくとも『サピエンス全史』に関しては、ある程度割り引いて評価をするのが良いという結論で妥当なのだろう。歴史学をやってきた人には、どう見えているのだろうかは気になった。

『サピエンス全史』よりは少し以前に流行った人類の歴史を描いた本がジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』だが、これに対して日本の地理学の観点から批判的に書評などを見ている記事を最近、見かけた。『日本の地理学は『銃・病原菌・鉄』をいかに語るのか―英語圏と日本における受容過程の比較検討から―』(https://www.jstage.jst.go.jp/article/ejgeo/7/2/7_225/_article/-char/ja/)である。『銃・病原菌・鉄』は未読だったのだが、どういう点が批判されているのか確かめるために現在読んでいる。ジャレド・ダイアモンドは生物地理学者が本職のようで(このことは、ポッドキャストの『すごい進化ラジオ』という番組を聴いて知った。ちなみに、この番組で解説される生態と進化の語り口は分かりやすくて面白い。)、読んでいて論の切り口に本職の空気を感じた。日本の地理学者らの記事に書かれていることは、たしかになるほどと思いながら、『銃・病原菌・鉄』を読み進めている。

さて、書かれていることで、見分けがつきやすい間違いや論理的に明らかな間違いなら判断できる。しかし、記述されている学問を学んでいないと、その学者がどういう立ち位置なのか、書かれていることが妥当なことを言っているのかを判定できないことも多々ある(というかほとんどのものは確定的に判定できない)。過去に学んだ学問でさえも、時間が経過すれば学問も前に進んでいて、以前に正しいとされていたことも間違っていたと示されることもある(過去に学んでいたわけではないが、ネアンデルタール人ホモサピエンスの交雑の話やスーラの自画像の話は2010年代に科学技術で新たにひっくり返っているそうだ)。批判的に読むことが肝要なのは分かっていても、その困難さを改めて実感し、周章狼狽している。降りかかる文字共に無慙に圧死しないように、賢い人間であれるように、鍛錬を積み続けないといけない。