霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

キャッサバみたいな鯉がいた

猫の死因にもなりうる好奇心について今回は書く。つまりは、私の好奇心の成長記録のようなものを書く。

幼稚園にいた頃、何かを知ることはなんとなく好きだった。幼年期のことは今となっては記憶をほとんど引き出せやしないのだが、たとえば、ポケモンリザードがトカゲの英語に由来しているなどといったことが分かったときには、軽い興奮を覚えていたように思う。

だんだん物心らしきものが付いて、周りのことが見えるようになってきたのは小学四年生くらいの頃だった。そのくらいの時期に、クラスメイトが両手の親指と人差し指を広げて「ゲッツ」と言い始めたし、「ENJOY 音楽は鳴り続ける」と歌い始めた。他にもテレビ番組(おはスタエンタの神様トリビアの泉など)や音楽(ポルノグラフィティORANGE RANGEなど)が話題になっていた。最初は話についていくことができなかった。どういう経緯を経たのかは覚えていないが、バラエティー番組やお笑い番組、音楽番組を見るようになって、話題に追いつくことが少しはできるようになった。とはいえ、ドラマはほとんど全く見ていなかったので、ドラマの話(ごくせん、野ブタ。など)をされても全然分かっていなかったし、他にも分からない話はたくさんあった。分からないのは仕方ないと思いながらも、モヤモヤは心のどこかにあった。

人の話題に置いていかれたり、追いついていったりしながら、小学6年生のとき、中学入試を受け、私立の中高一貫の男子校に入学することとなった。中1のクラスではドラゴンボールが少し流行っていたので、ブックオフで頑張って買い集めて読んでいた。その後、ドラゴンボールの元ネタの西遊記を図書館で借りて全て読破したりもした。本や漫画の読書量が増え始めたのはこの時期くらいからだった。家の近くの本屋で見かけたドラゴン桜を買って読んだのが、中3の頃だったと思うが、そのころから、勉強量を増やしていった。学ぶことが増えていくと、知識の点がばらまかれ、ばらまいた点が線になり、線と線が面に、立体に、高次元の何かしらになっていくことに快感を覚えていく。学校の授業で学ぶことに限らず、あらゆる知識はつながっていることに気付き、知ることの快感を知ると、好奇心はさらに成長していった。それと同時に、友人と話すとき、その人が興味を持っていることについて知っていれば、そのことを話すことができ、会話が盛り上がる。その快感もまた、好奇心の成長を促進していった(教養とは、共有できる日常の空間を広げるものだと、個人的に定義しているのは、こういった経験からである)。これらの2つの快感はいつしか中毒的な感情になっていく。

浪人期を経て、大学に入ると、知識獲得へのリソースの配分の自由度が増えた。大学の教養の講義や専門の講義も面白いものは面白いし、高校までに蓄えた基礎知識で読めるものが増えた読書も面白いし、映画館や美術館、好きなバンドのライブに行くのも面白い。スポーツをやるのも観るのも、アニメを観るのも、漫画を読むのも、ゲームをするのも、美味しいごはんを食べて美味しいお酒を飲むのも、どれも面白い。面白さが溢れる中で、時間とエネルギー、とりわけお金が足りないという当たり前の事実に衝突する。予算制約の下で意思決定を行うことの難しさに直面する。選択肢の多さ(知らない選択肢の多さも含め)も、自分の価値観(価値関数)の分からなさも、この難題の要因となる。選択肢を取捨選択すること(とくに捨てること)、未知の選択肢を探索すること、自己の評価の仕方の検討することの重要性を実感していた。そして、これらのことは余裕の上に成り立っていることであり、余裕の有難さへ感謝をするようになった。

人差し指の愛人 - 霞と側杖を食らう

これは酒です - 霞と側杖を食らう

上の二つの記事は似たようなことを考えている。

会社に入ってからは、時間とエネルギーの制約が厳しくなっていく。余裕が少しずつ失われ、まとまった時間やまとまったエネルギーがないと消化できないものを味わいにくくなった。歯ごたえのあるものを味わえなくなっていく自分の衰えとともに、恐れを感じている。数学の本を丁寧に読むことはもう難しい。仕事や家庭の多忙さに追われていくのが人生であることは理解しているが、新しいものをディグっていくことが全くできない人々が周りにいるし、自分もそうなっていくのを感じている。ある程度はそうなることを受容しているが、反発している自分がそこにいる。少し強迫的かもしれない。このような感情を同じように抱いている人もいて、『研エンの仲』というポッドキャストのep39やep72では文化を咀嚼する顎の筋力が衰退に対するが語られていた。彼らの会話に痛く共感した。

自分の中の好奇心というモンスターが大きくなっている一方、飼いきれなくなりつつあるのかもしれない。中毒的で強迫的にまで肥大化し、怪物のように育った好奇心と、今後も上手に付き合っていかないといけない。これからも成長を見守っていくしかないのである。