霞と側杖を食らう

ほしいものです。なにかいただけるとしあわせです。[https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2EIEFTV4IKSIJ?ref_=wl_share]

望みに進むのが気持ちのいい人生

 一年以上ぶりに再会した人や連絡をくれた人が、このブログをたまに見ていると伝えてくれることがある。ときには、あの記事が面白かったと教えてくれることもある。主な読者ターゲットは将来の自分と考えていて、他の人にとっては恐らくよく分からないであろう記事が多いにも関わらず、読んでくれる人がいるということはとても嬉しい。もちろん、気恥ずかしさもあるけれど、今後も何かしら書き残していこうと思う。

 さて、久しぶりに会った人と何を話すか悩むことがある。思い出話に花を咲かすのか、近況報告をするのか、最近面白かったものを共有するのか。話題として何が適切か、相手は何を面白いと思うか、何なら理解してくれるかを予測しながら、会話を選択する(このプロセスを他の人はどう扱っているのか気になるところだが、人の脳内は残念ながら覗けない)。発話までに挟まる、このプロセスは相手や状況、自分の状態によって、負荷が異なる。場合によっては、会話を億劫に思ってしまうこともある。

 そういう意味で言えば、ブログやTwitterに書くということは楽でいい。相手の存在をあまり考えずに、一方的に書きなぐることが可能だからだ。質だとか、量だとか、関係だとか、様態だとか、小難しいことは考えなくていい。書きたいように書くことができる。会話はキャッチボールに例えられることがあるが、一方的な書きなぐりは球を取ってくれる人を気にせずに、好きな速度で好き勝手な球種の球を放っているようなものだ。そういう欲を満たしたくて書きなぐっている人が一定数いるのだろう。

 双方向のコミュニケーションに話を戻す。コミュニケーションに関する個人的な悩みの一つとして、自己開示の難しさがある。人に対して、自分のことを話すのが個人的にあまり得意でない。『ラジオただいま発酵中』というポッドキャスト番組の雑談回(144回と166回)で、自己開示について語られていたが、男性は弱みを曝す訓練が少ない傾向にあるという話があった。できることを話すけど、悩んでいることやできないことについては話さないし、話し慣れていないのだ。あまり考えたことはなかったが、弱みや悩みについては、その通りだと納得した。

 自己開示の難しさの理由として他にもある。自信の無さも、その一つだ(自信の無さについてはブルーピリオドの芸大受験編の終盤のストーリーが良かったので、ここにメモしておく)。自分のことについて、自分で話していても面白くないし、相手が楽しめると予想していない。会話のネタとしてわざわざ選ばない。語るに値すると思わないし、浅薄さを悟られるのが嫌なのかもしれない。自己を中心とした精神的空間への接近が怖いのかもしれない。自分の見せている面の裏側を理解されるのを避けているのかもしれない。

 自分の知り合いがその場にいない場面で、その人について語るのもあまり好んでいない。関係性は個人と個人の間にこそあるもので、その関係ゆえに繋がっていることもあると考えている私は、その関係性を勝手に外で話のネタにしてしまうのが、個人的に好きではないのである。こういう思考もまた、自己開示を難しくさせているように思う。

 今のところ、自己開示が上手くなる見通しは立っていない。必ずしも改善しないといけないわけではない。最適な会話なんてものは存在しないのだから、自己開示が必要なわけではないはずだ。それでも、自己開示が求められることもある。コミュニケーションというものは、なんとも難しい。また何か書きなぐりたくなったら、書くことにする。では、また。