霞と側杖を食らう

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本について語るとき某の語ること

2人で話しているポッドキャスト番組をいくつか聞いていると、聞き手の知らない単語を語り手が使ったとき、聞き手の側が自然にその単語はどうやって漢字で書くか尋ねる番組と、そうでない番組があることに気付く。後者の番組を聞いていると、なぜ漢字変換してくれないのかと、ストレスに感じてしまうことがある。どうして、その差が出るのか考えたとき、私は漢字変換して意味を捉えて記憶していこうとする一方で、音声としての認識は記憶の中で多少ぼんやりしていることがある一方で、漢字変換しない人は別の認識方法で言葉を捉えているのだと感じる。言葉を、漢字のような図画を優位として認識する人と、発音などの音声を優位として認識する人で、世界の捉え方はきっと異なるだろう。他の人の脳内の処理を覗き見ることはできないから、想像の範囲でしかないのだけれど、同じ人間とはいえ、認識のやり方は人によって異なるのだと思う。

本の読み方もまた人によって違う。その違いが顕著に感じられたのは、オモコロのこの記事(https://omocoro.jp/bros/kiji/366606/)だった。これは、本を読んだ経験のほとんど無いライターが仲間のライターの助けを借りながら『走れメロス』を読み進めるだけの記事なのだが、ライブ感があって生き生きとしているし、他人の読書を追体験でき、とても面白かった。ワンカット、ワンカット、噛み締めて読んでいるのが良い。私なら軽く目を通して読み飛ばしてしまう文に対しても、この記事の読書ではリアクションしている。ここまで一文一文に正面から向き合った経験は私にはほとんどない。

文章と脳内の処理の違いを扱ったもので、印象に残っているのが、twitterで昔見かけた『本を読むのが遅い人』というタイトルの漫画だ(https://twitter.com/3MshXcteuuT241U/status/1547091314281713664?s=20)。1冊の本を、1日数ページしか読み進められないのだけれど、物語の世界観に没入しながら半年かけて読み終える、上司の姿に、作者が心動かされる体験談を描いたものだ。他に印象に残っているのは、これまたtwitterで、小説を書くときのことをつぶやいているツイートのまとめ(https://togetter.com/li/1976393)なのだが、脳内で映像を再生して書いている人や静止画を思い浮かべて書いている人、文章がそのまま浮かんで書いている人など色々なタイプの人がいた。私は文章を読みながら鮮明に情景を思い浮かべることは少ない。どちらかというと、文章から想起されるぼやっとしたイメージと、それに関連して思い浮かぶ知識や経験が紐づきながら、文章を読んでいる気がする。文章の脳内での処理のプロセスはこんなに異なっているのはどうしてだろうか。異なったプロセスで読書をしているのに、面白い、良かったと感想を共有できている(もしかすると、できているように見えているだけなのかもしれない)のは一体何なのだろうか。読み方のプロセスは先天的にタイプが決まっているのか、それとも後天的に発達していくものなのだろうか。疑問は多く残る。こういうことは認知科学あたりが研究しているのだろうか。

文章の読み方で、もう一つ気にかかったのが、このnoteだ(https://note.kishidanami.com/n/n6cc7d7d8a1de)。作者のエッセイが中学入試の国語の問題で出題され、作者本人がその問題に挑んでみたものの解けなかったが、担当の編集者に解いてもらったら全て正解だったので、驚いたという話だ。編集者は一文、一文の意図と効果を明確に意識した読みをしているそうだ。読み方について考えるための材料は、編集者の視点にあるのかもしれない。

東京ポッド許可局というポッドキャスト番組の1つのコーナーで、「忘れ得ぬ人々」というものがある。このコーナー名の元ネタがおそらく国木田独歩の『忘れえぬ人々』にあるということに最近気付いて、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/1409_34798.html)で読んだ。脳内に自分なりのイメージを浮かべながら読んだ。忘れえぬ人々についての語り口がとても良かった。